高村光太郎 その後(3)

 中村氏の著書は、自分の思いを歯に衣着せぬ表現で述べていて小気味がよい。例えば氏は、光太郎の経済生活についても、おそらくは他の人よりも突っ込んだ考察をしているが、それについて以下のように述べる。

「嫌な仕事であってもそれによって生活し、研究などをするのは誰も耐えていることである。高村光太郎は自ら収入を得る職に就くよりも、父光雲の代作をしたり、下職をしたりして、小遣いを貰い、その余は父光雲の脛をかじって生活することを選んだわけである。私にはこのような高村光太郎の倫理観は理解できないし、共感もできない。むしろ私はつよい反発を覚える。」

 経済的にいつまでも自立できず、自分が嫌う父・光雲の脛をかじることで純粋性を守っていたことについては、私もずいぶん指摘した。中村氏にまったく同感だ。
 光太郎は、自分の生活が貧窮状態にあったことを詩にも歌っているが、光太郎の生活は光雲によって支えられていたのであり、それがある種の「貧乏ごっこ」に過ぎないことも、私は指摘している。
 光太郎の貧乏についての中村氏の見解は矛盾している。例えば、「私達の最後が餓死であろうという預言は」で始まる「夜の二人」という詩を引いて、次のようにコメントする。

「倫理的にいえば、妻を養うほどのことは夫の義務である。自分には生活費が稼げないから餓死するより他はない、というのは冗談である。結局は光雲の下職、代作によって生活していたのだから、見方によれば、これは嗤うべき戯言である。智恵子の真実の心に耳を傾けようとしていない。つけ加えれば、くりかえし書いてきたとおり、高村光太郎は飢餓に対して強靱な体質だったようである。」

 ここに見られる智恵子と光太郎との関係については、昨日の性欲に関することと同じ問題がある。そこで、その点については繰り返さない。私は中村氏と違って、飢餓についての光太郎の自己申告を信じていない。食べることに不安がないからこそ、暢気に飢餓や貧乏に憧れ、詩の主題にできたのである。氏も私と同じく、「餓死するより他はない」というのを「冗談」「戯言」と評してもいる。その一方で、「光太郎は飢餓に対して強靱な体質だったようである」と書くのが、私には理解できない。

 戦争に触れよう。毎日新聞の書評は、中村氏が「(太平洋戦争下、膨大な戦争詩を書いたことに)彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」と断ずることを取り上げ、「これは通念を覆す指摘だ」と評する。私があえてこの本を買おうと思ったのは、この点にこそあるかも知れない。光太郎の戦中・戦後のドラマは、考察に値するテーマである。
 中村氏は、光太郎が戦後「暗愚小伝」という連作詩の第2篇として書いた「わが詩をよみて人死に就けり」を、「『暗愚小伝』所収のすべての作品よりも私たちの心をうつ詩です」と高く評価する。あえて引用する。

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがった。
 死はいつでもそこにあった。
 死の恐怖から私自身を救うために
 「必死の時」を必死になって私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かった。
 その詩を毎日よみかえすと家郷へ書き送った。
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 光太郎は結局、この詩を「暗愚小伝」に採録しなかった。中村氏はその理由を、「『暗愚小伝』から抹消することによって、高村光太郎は彼の詩が多くの将兵を死に赴かせたことの責任を回避したのである」とする。また、「少なくとも彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない。だから『わが詩を読みて人死に就けり』を『暗愚小伝』から削ったのである」とも書く。「責任を回避した」と「責任を感じていなかった」はずいぶん違う。前者なら、責任を感じていたからこそあえて回避した、ということになる。
  詩の中に描かれた情景は、1945年4月13日夜の東京大空襲の時のものでありながら、「必死の時」は1941年11月19日の作である。東京大空襲の時期に、「必死の時」を書いていたというのは事実に反する。中村氏は、そのことも光太郎がこの詩を「暗愚小伝」から省いた理由かも知れない、と言う。だが、これは変だ。事実に反するのならば、そのことに気付いた時点で訂正すればいいだけの話だからである。「我が詩をよみて人死に就けり」は1946年5月半ば以降の作である。東京大空襲の情景も「必死の時」を書いたことも、どちらも思い出でしかない。訂正は容易だったはずだ。(続く)