高村光太郎 その後(2)

 2冊目は、福井次郎『映画「高村光太郎」を提案します』(言視社、2016年4月)である。これは無難な高村光太郎論である。可もなく不可もなし、といった感じだ。私を含めて多くの人が世に問うてきた高村光太郎論に新風を吹き込むべく、その生涯を映画化することを提案するという書法を取ったことは面白い。映画化の提案が本気であるかどうかは分からない。単に書き方の工夫、というだけかも知れない。
 仮に映画化の提案が本気だとして、氏の提案どおり映画を作って上手くいくとは思えない。氏は、「映画化を考える場合、光太郎の思想を描こうとすると企ては破綻すると思われる。描かねばならないのは、光太郎という人間であり、彼が遭遇したドラマなのである」と言う。もとより思想という目に見えないものを描くことは不可能だが、彼の「人間」「遭遇したドラマ」を追うことを通して「思想」に触れようとしないことも不可能だ。しかも、メリハリはつけつつ、氏はその生涯におけるほとんど全ての出来事を盛り込もうとしている。それはおそらく長大な「説明映画」にしかならない。
 私なら、戦後7年間、岩手の山里に住んでいた時代の光太郎に焦点を当てた一人芝居の脚本にする。そもそも、強烈な自我を持ち、本心を語らず、理想主義的な自分の世界に生き続けた光太郎の生涯は、一人芝居そのものである。その中に、回想シーンとして、幼少から戦中に至るまでの様々な出来事を挿入する。その時その時の光太郎の本心がいかなるものだったのか、大胆な想像を交えながら本人に語らせれば面白いだろう。そのうち、私がやってみようかな。

 3冊目は、今回これを書くきっかけとなった中村稔『高村光太郎論』(青土社、2018年4月)である。弁護士にして詩人。それぞれの分野で一家を為した人物による考察は、やはり手応えがある。私は中村稔氏がご存命であったことも知らなかったのだが、現在91歳。80歳を過ぎてからの10年間に、司馬遼太郎中原中也樋口一葉芥川龍之介萩原朔太郎西鶴石川啄木、そして今回の高村光太郎と8人に関する論著を上梓している。まったく驚嘆に値するエネルギーだ。ただし、いかに若い頃から材料を蓄積していたにしても、このペースで本を出すのは危ない。『高村光太郎論』にしても、粗製濫造とまでは言わないが、これまでの研究の蓄積をしっかり踏まえ切れていないという恨みが残る。人の論著を読んで、それに振り回されるのもよくないが、そのことによって思索が深まるのも確かなのである。
 本書において特徴的なのは、高村光太郎の性欲に関して正面から言及したことである。これは、人があえて触れずにいたタブー領域なのかも知れない。氏は詩「淫心」全文を引用した上で、次のように言う。

「彼自身が性欲旺盛であったことは疑問の余地がないのだが、智恵子もこの歌に歌われたように『多淫』、地熱のごとく、烈々たる淫心の持ち主であったかどうか、大いに疑問を持つ。こうした詩を公表されたら、智恵子としてははげしい羞恥心を覚え、人前に出るのも躊躇するだろう。この詩に書かれたように智恵子が『多淫』、淫蕩であったとしても、高村光太郎には智恵子に対する思いやりがない。まして智恵子が真実そうでなかったとすれば、高村光太郎の独断であったとすれば、どうか。かりに智恵子が性的交渉にさいし快感を覚えたような徴候を示したとしても、それがどれほどの恍惚たる反応であるかは、男性には分かりようがない。この詩は高村光太郎の独断であり、彼にはつつしみがないように、私は感じている。」

 一見常識的な見解である。だが、智恵子に激しい淫心があったことを否定する根拠は薄い。智恵子をモデルにしたと思しき田村とし子の「女作者」という小説の一節、「その女(=智恵子)は近い内に別居結婚をすると云って行ったのである。たいへんに恋し合っている一人の男と結婚するまでになったけれども、同棲をしない結婚をするのだそうである。」を引き、「智恵子は性的交渉に嫌悪を抱いていたか、あるいは臆病だったので、別居結婚を夢みたのであろう」とコメントしている。しかし、その一節の後には、「自分の親さえ親と思う心はないのに、他人の親まで、私の親にするなんて、そんな事はとても私には出来ないわ。結婚したって私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と言ったってそれは人のためにする恋じゃないんですもの。自分の恋なんですもの。」という智恵子(らしき女)の言葉が続く。
 もともとが小説である上に、智恵子(らしき女)が別居結婚をすると言っている理由は、男の家族との関係にあると読める。少なくとも、それが性的交渉に対する嫌悪感とはどうしても読めない。
 また、「女作者」の引用にも表れている通り、智恵子という女性は、特異な人間性の持ち主である。智恵子に関する周囲の人々の証言を拾い集めると、その人間性の得体の知れなさに唖然とするのだ。簡単に言えば、光太郎に勝るとも劣らない強烈な自我を持ち、他人の思惑を気にすることなくそれに忠実に従って生きながら、自分の思いは一切表に出さない。智恵子はそんな女だった。そのことはほとんど議論の余地のないことに思われるのだが、多くの高村光太郎論作者が、なぜかこの重要なことを無視、または軽視する。中村氏も同類だ。おそらくそれは、光太郎の側からの表現ばかりが残っていて、智恵子の側の言葉は残されていないということと、最終的に智恵子が精神病で死んだという事実があるからである。光太郎によって一方的に描かれ、追い詰められた智恵子が、精神に破綻を来して死んだ。そんなストーリーで二人を描くことは、簡単で分かりやすく、俗受けがする。
 性の問題もそれ以外も、智恵子と光太郎が本当のところどのような関わり方をしていて、それについて智恵子が何を感じていたかなど、とてもではないが分かるものではない。高村光太郎があけすけに自分たちの性生活を詩に詠んだことにしても、発表の前に智恵子の了解を取らなかったのかは分からない。取らなかった、とも言い切れない。一般的、常識的な眼で彼らの関係を評することは危険である。
 私は、拙著の中で、智恵子に関する記述を、平塚らいてうの次の言葉で結んだ。

「智恵子さんの狂気のことを伝え聞いたとき、わたくしはさほど驚きませんでした。また、普通の人の場合のように悲しみもしませんでした。それには、このひとはたとえどんなに苦しんでも、狂っても、幸福を内にじっともっているという気持ちが、一方にあったからです。亡くなられたときも、純粋な想念の世界に復活した、この一個の自由な霊を祝福したい心が先立って、月並みなお悔やみなどはわたくしの口から出てこないのでした。」(『原始女性は太陽であった 完結編』)

 今でも、これに勝る智恵子評は存在しないと信ずる。若い頃から直接本人を知っていて、その人間性を深く理解している人の言葉というのは見事である。(続く)