光太郎と智恵子(3)



 昨日、『「高村光太郎」という生き方』における痛恨の一節について書いた。確かに、その部分のおかげで、私は自著を見たくもないのだが、それ以外の部分については、智恵子と光太郎の関係も含めてあまり間違ったことは書いていない。

 私は、智恵子の死の場面を、智恵子が雑誌『青鞜』に関わっていた(NHK『日曜美術館』では、智恵子が『青鞜』の社員であったかのように言っていたが、おそらくそれも正しくない。智恵子は『青鞜』に多少出入りはしていたが、社員ではなかった。拙著注23参照)時の代表者で、大学の先輩でもある平塚らいてうの次のような言葉で結んだ。

「智恵子さんの狂気のことを伝え聞いた時、わたくしはさほど驚きませんでした。また、普通の人の場合のように悲しみもしませんでした。それは、この人はたとえどんなに苦しんでも、狂っても、幸福を内にじっと持っているという気持ちが、一方にあったからです。亡くなられた時も、純粋な想念の世界に復活した、この一個の自由な霊を祝福したい心が先立って、月並みなお悔やみなどはわたくしの口から出てこないのでした。」(『原始女性は太陽であった 完結編』)

 これは、とても正確な智恵子理解に基づく見事な言葉である。らいてうのこのような理解は、大学時代の智恵子の印象に発している。彼女は、大学時代の思い出として次のようなことも書く。

「どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこの人の打ち込む球は、まったく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれに飛んで来るので悩まされました。あんな内気な人 ― まるで骨なしの人形のようなおとなしい、静かな人のどこからあれほどの力が出るものか、それがわたくしには不思議なのでした。」(「高村智恵子さんの印象」)

 どこかで高村光太郎について話をすると、必ずと言っていいほど、人々は光太郎よりも智恵子の人間性に興味を示す。大人しく、外見からはその思想や感情を知ることができない。それでいて、確固たる自我を持ち、人に流されることはなく、言葉には表さなくても、態度では明瞭に示す。そこに人はなんとも謎めいたものを感じ、心引かれるのだ。それが、上のらいてうの描写には端的に表れている。

 らいてうだけではない。多くの人が、その一風変わった智恵子の言動を印象深く書き留めている。光太郎と結婚して以降、アトリエでの生活においても、「奇行」に変わりはない。光太郎も社会と関係することが下手で、自我が強く、世間の価値観とは異なる言動を取ることが多かったが、光太郎が光太郎なら、智恵子も智恵子なのである。その意味で、二人は似たもの同士であった。違うのは、光太郎が外部に対して自己主張することが多かったのに対して、智恵子は基本的に内に秘めた、という点である。

 二人は共に、相手との愛に満ちた生活を語るかと思えば、夫婦として首をかしげたくなるような行動をも取る。本当に愛を感じていたこともあったかも知れないし、場合によっては、自分自身の内的世界を守るために相手が必要だった、ということもある。時に二人は、敵対する「世の中」に対して、自分たちだけの世界を作って守る必要もあった。

 そのような二人の姿を、理解できない異常な夫婦関係であると考えるのは、彼らを私たちの側の価値基準で評価しようとするからである。極めて特異な個性と強烈な自我を持つ二人にとって、それはそれで幸せな、彼らなりに納得した夫婦関係だったに違いない。それこそが「愛」だと言われれば、なるほどそうかも知れない、とは思う

 吉本隆明は「高村光太郎ほど本音をはかなかった文学者はめずらしい」(「高村光太郎私誌」1970年)と書く。光太郎は文章や詩の中で、露骨で大胆な表現を厭わないので、むしろ隠さない表現者だと思われる節がある。だが、吉本の言うとおり、むしろ「本音」としては逆なのである。吉本の見解は、ここでも正しい。そしてその結果として、伝記的な事実に関しても光太郎の人生には謎が多い。これだけ有名になった智恵子夫人との関係にしても同様なのである。だから、私にも、はっきりと説明しきれないことがたくさんある。おそらく、それもまた、彼らの「愛」のあり方の一面なのであろう。

 ともかく、絶対にはっきりしていることは、『智恵子抄』の中の一編「あなたはだんだんきれいになる」に端的に表れたように、光太郎が智恵子を美化するのは、深い愛情の表れなどではない、ということ、従って、光太郎と智恵子との関係が、世間で言われるほど単純な「純愛」ではなかったということ、である。

 私が何度か吉本隆明を引いたように、このようなことは私の「発見」などではない。にもかかわらず、いまだに、NHKの愛好者向けの番組の中で、旧来の「光太郎+智恵子=純愛」というステレオタイプまことしやかに語られるというのは、驚くべき事であった。(完)