光太郎と智恵子(2)



 10月15日に書いたとおり、拙著『「高村光太郎」という生き方』は、初版を売り切ったところで品切れとなり、再版されていない。今、出版社から再版の申し出があったらどうするか?改訂を条件でなければ、私は首を縦に振ることはできない。本の成り立ちに基づく「ですます調」を始めとして、気に入らないところが山のようにあって、とてもではないが、再版を喜んだり、まして人に宣伝したりする気にはならないのである。自著についての不満の中で、決定的な点は智恵子と光太郎の関係に関する部分である。

 1931年8月、光太郎は智恵子を家に残し、約1ヶ月にわたって一人で三陸地方を旅行した(この時、石巻、女川に来た)。時事新報社の依頼によるもので、その点では「仕事」であった。依頼に従い新聞に連載した紀行文の第8回に、光太郎は次のように書いた。

「もしこの世が楽園のような社会であって、誰がどこに行って働いても構わず、空いている土地ならどこに住んでも構わないなら、私はきっと日本東北沿岸地方のどこかの水の出る島に友達と住むだろう。」(「三陸廻り」) 

 光太郎が一緒に住もうというのは、妻ではなく友人である。光太郎は後に、智恵子の精神変調は1931年に始まると書いている(「智恵子の半生」)。ちょうど光太郎が、三陸旅行に出かけた時期であった。光太郎が出発する10日前に、智恵子は母親に対して絶望的な手紙を書いている。なぜかと言えば、1918年に智恵子の父親が亡くなった後、家を継いだ弟の遊蕩などによって、智恵子の実家は急速に没落して、1929年に破産し、1931年には、とうとう母親の生活もままならないところまで追い詰められたからである。

 この時、光太郎は智恵子の実家に関する切羽詰まった状況に気付いていない。だが、おそらく、智恵子の様子がおかしいとは気付いていた。何だか理由は分からないけれど、智恵子の態度が変だ、心配だというよりは腹立たしい、不愉快を催すような態度と感じられたのだろう。だからこそ、「三陸廻り」に上のようなことを書くのである。友人・草野心平は、旅行後の光太郎から、その旅行が楽しかったと聞かされたと言うが、それは、おかしな智恵子から逃れて1ヶ月を過ごしたことに対する解放感を多く含んでいるように思われる。

 さて、旅行に出かけた当時、光太郎が智恵子の実家の状況を知らなかったことについて、私は自著の中で、次のように書いた。

「これが光太郎と智恵子の夫婦関係の不和だとは言えません。そんな智恵子を一人家に置いて、旅行に出たことを責めることもできません。なぜなら、智恵子はこの時期、母親と申し合わせて、自分たちの追い詰められた状況を光太郎に語ってはおらず、光太郎にこの時の智恵子の状況をきちんと理解していろというのは無理があるからです。」(159頁)

 これは、痛恨の一節である。何だか自分の恥をさらしているような気分にさえなる。実家が自分の気を狂わせるほどに困った状況にありながら、夫にそのことを話さないというのは、少なくとも、結婚から17年を経た愛情に基づく夫婦関係の自然な姿には思われない。そのようなことを忌憚なく語ることのできない夫婦とは一体何なのか。それは、明らかに「不和」と呼べる状態であろう。それが、往々にして模範的な純愛として語られる光太郎と智恵子の関係なのである。(続く)