低い投票率と『智恵子抄』・・・!? (1)



 しばらく前の話になるが、12月の衆議院議員選挙の直後、職場で某同僚が投票率の話を始めた。今回の選挙の投票率は、戦後最低の52.66%。その低さは各所で話題になったが、基本的には「困ったものだ」という論調である。果たしてそれが本当に困ったことなのか・・・という話である。某同僚は次のように語った。

「高校生を見て想像する限り、今の日本で、立候補者がどのような政治姿勢を持ち、政策を掲げているかを正しく理解し、判断できる人は決して多くないだろう、今回投票に行かなかった人にはそのような「理解できない人」の割合が高いに違いない、だとすれば、そんな人たちが誰かに踊らされていい加減な投票をし、無駄に投票率が上がるよりは、いっそ棄権してくれた方が適切な選択が行われるのではないか?従って、今回の選挙の結果がいいかどうかはともかく、90%の投票率があったよりはまともな結果になっているのではないか? 」

 周囲で話を聞いていた同僚たちの中には共感を表明する人が多かった。実は、正直な話、私も基本的に同じ考えであった。だが、「確かにそうだ。投票率が高くならなくてよかったねぇ・・・」とまでは言う気にならなかった。当然である。それは民主主義の否定になるからだ。

 確かに、この複雑化した世の中で、政治、経済に関する基本的な知識を持ち、立候補者の意見を正しく把握するのみならず、今までの彼らの言動にも目を光らせ、それなりの判断を下すことは、容易な作業ではない。半分以上の日本人にそれが可能かどうかは分からない。かといって、その責任は全ての日本人にあるとはいえ、教員となればなおさら重い責任を負っていることを否定できない。その教員が、投票率が低くてまだよかった・・・と言うのは、やはりまずいような気がする。

 だが、勉強なんて大嫌い、政治なんて他人事と思っている高校生に向かって、問題意識を目覚めさせ、政治経済や日本語の面倒な学習に取り組む意欲を持たせることは、ほとんど神がかり的と言ってよいほど困難な作業だ。さて、どうしたものか・・・?と冬休み中考えていた。

 話はがらりと変わるようだが、12月の始めから、3年生の授業で高村光太郎の『智恵子抄』を読んでいる。理由は基本的に二つだ。教科書を使いにくい事情があることと、私がいつ異動になってもおかしくない、ということである。後者は、なぜ光太郎に結び付くか分からないだろう。

 私が異動すれば、再び普通高校である可能性が高い。そこはたいていの場合、一つの学年を複数の教員で分担する。人と足並みを揃え、同じ範囲、同じ問題で考査を行うことが求められる。その結果、教科書以外からテキストを持ってくるということは困難であり、他者と歩調を合わせられないような独自の授業は行えない。だから、3年生5クラスを一人で丸抱えにしている今が、いわば最後(←あくまでも、今春異動があればという仮定)のチャンスなのである。

 23年前に作った手書きのオリジナルプリントと、それを基礎として書いた自著を参考に、今回もオリジナル、手書きのプリントを作った。ところが・・・である。プリントを作っていても、どうも興が乗らない。プリントを作りながら、自分自身があまり面白くないのだから、自分としては一生懸命頑張っているつもりでも、その気分は授業でも表れているに違いない。生徒もあまりいい反応を示さない。理由ははっきりしている。『智恵子抄』自体に感動できないのである。自分が高校時代、あるいは教師になった当初、感動できていた『智恵子抄』は、今読むと、ひどくわざとらしく、自己陶酔的で甘ったるいだけの作品群に見える。『智恵子抄』が実はその程度の作品だった、と言うのでは必ずしもない。今の私の心理を反映しているだけの可能性もある。

 言うまでもなく、国語の授業は、教師の趣味を生徒に押し付ける場ではない。だが、教師が感動できない作品について、生徒に熱く語ることは出来ず、教師が熱く語れないことを、生徒が感動を持って聞くということは起こらない。いくら「読み書き」とは言っても、人間は機械ではないので、感動や思考を離れて、別に「読み書き」というものが存在したりはしないのである。

 さて、投票率の話からなぜ『智恵子抄』に飛んだのか?   (続く)