低い投票率と『智恵子抄』・・・!? (2)



 12月24日の『毎日新聞』に、埼玉県済生会栗橋病院院長補佐・本田宏氏による「福祉国家を支える教育」という記事が載った。副題として「最低の帳票率だった衆院選」とある。氏は、日本とデンマークの教育を比較しながら、主権者教育のあるべき姿を考察する。たいした文章ではないが、私が考えるきっかけにはなった。

 国連の「世界幸福度報告書」で、デンマークは1位、日本は43位であり、国政選挙の投票率は、日本が53%弱だったのに対し、デンマークは88%。氏は、最初にこれらの数字を挙げ、民意の高さが幸福度の高さに結び付くとの前提に立って、デンマークの教育がなぜそのような高い民意を生み出し得たのか考える。氏は、ケンジ・ステファン・スズキ著『デンマークが超福祉大国になったこれだけの理由』(合同出版)を元に、主に二つのことを見出しているようだ。

 ひとつは、学校での教育や日常生活は自由な精神、平等、民主主義の上に成り立つものでなければならず、教科書も授業方法も国から制約を受けていないことであり、もうひとつは、小学校1年生から、選挙を始めとする社会システムについて、意見交換を通しての実践的な思考トレーニングを行い、やがては情報収集の方法なども学べるようにしていること、であるとする。

 第一の点はどうしようもない、という諦めが私自身の中にあってか、私は当初、第二の点についてばかり考えていた。現在の日本の学校で、デンマークのような教育が不可能だろうか?あれこれ考えてみたが、どうしても、やろうと思えば出来るような気がする。実際、現在の授業でも、多少一方通行ではあるように思うが、そこそこのことは勉強している(させている)ように思う。だから、日本の民意が低調なのは、必ずしも授業のやり方の問題とは言えないような気がしてきた。

 そんな折、『智恵子抄』の授業をしながらふと思い浮かんだのは、政治に対する関心をさほど持たず、自らが積極的に政治と関わっていない人間に、本当に力のある主権者教育はできないのではないか?ということだ。自分で感動できない作品を授業で扱っても、生徒の心は動かせない、というのと同じなのだ。

 平和ボケ、ということはあるだろう。だが、デンマークは平和でないだろうか?世界で最も平和な国のひとつであるはずだ。決定的に日本と違うのは、教育に対する政治の姿勢である。公務員の政治活動に対する過剰な制限判決が力を持ち、例の「日の丸・君が代」問題で、上への絶対的服従を徹底された学校において、政治に関わることは危険なことであり、避けた方が賢明なことになっている。能動的に政治と関わり合う教員は少数で、教職員組合ですら関わらないようにしている教員が圧倒的多数を占める。日本の教員の政治離れは、平和ボケと言うだけでなく、政策的に作り出されている部分が大きい。この現実が、仮にまったく同じ事をしても、違った結果を生むのである。誤解されないよう確認しておくが、私は、教員が授業で政治運動をすべきだ、と言っているわけではない。ただ、政治に切羽詰まった問題意識を持ち、能動的に関わっている人間は、公正中立な立場で授業をしても、生徒の心を掴み、動かす力がまったく違うだろう、ということである。結局のところ、どうしても大切なのは、第一の点なのだというところに、私の思考は落ち着いた。

 投票率が低かったという民意の低さを、教育現場の人間が他人事のように嘆いているだけではダメだ、というのと同様、政治が悪いのだから仕方がないのだ、と嘆いていても始まらない。いい大人が、まして、一応の基準として「先生」と呼ばれる程度の人間であれば、自分たちが批判的能力を失い、保身に汲々とすることを、人のせいにしてはならないのである。家庭に何かしらの問題があっても、高校生にもなれば、自分自身でまともな行動が取れるようにならなければダメだ、という論理は、政治から顔を背けている教員自身が、家庭環境に問題のある高校生に対して用いる論理である。幸いにして日本では、教員が、政治のあり方について考える材料すら持てないほど、報道が制限されているわけではまだない。そこはしっかりわきまえなければ、と思う。(終わり)