教員の質の確保・・・教採倍率3%ラインをめぐって

 一昨日の毎日新聞第1面トップ記事は、見出しが「小学教員採用『危険水域』」というものであった。小見出しは「多忙な現場 敬遠か」であり、更に「18年度志願者倍率 最低3.2%」とも書かれている。
 記事を読めば、昨年度の小学校教員採用試験の倍率が、全国平均で過去最低の3.2倍になり(ちなみに中学は6.8倍、高校は7.7倍)、特に倍率が低かった県の教育委員会で強い危機感を持っているという。だが、むしろ私が目を止めたのは「3倍を切ると質の維持が難しくなると言われ」るという部分だ。この「言われ」は、誰によってだろう?
 インターネットで検索し、その出所を一生懸命探した。どうしても見つからない。都道府県教育委員会がそう言っているというような記事は、2~3見付けられたのだが、ではそれらの教育委員会がなぜそのように言っているのかとなると、分からなかった。
 質を維持するためには、採用時の倍率が高い方がいいというのは確かである。だが、果たして「3倍」という数字に意味があるかというと、甚だ疑問だ。ことはそれほど単純ではないだろう。教師の質をどのように考えるか、どんな人たちが受験するのか、によっても倍率の意味は変わってくる。おそらく、「3倍」というのは根拠のない誰かの主観だったが、それがいつの間にかまことしやかに一般論として語られるようになってしまった、と想像する。世の中にはこのようなことがよくある。危ない。
 学生の学力低下が言われるようになって久しい。学者が調査し、データを集めるまでもなく、現場の教員はおそらく全員、それを実感しているはずだ。私は高校生の低学力にも問題は感じるが、実はもっと深刻だと思っているのは、教育実習生の低学力、もしくは教養の欠如である(→参考記事=大学生の学力について)。
 この10年間勤務している学校には、さほど実習生が来ないが、私が実習生の低学力に危機感を持つようになったのは、仙台一高(2003~2010年勤務)からさらに石巻高校(1994~2003年勤務)にまでさかのぼる。日本語を読む力のデタラメさもさることながら、漱石を1冊も読んだことがないとか、授業以外で「古典」を読んだことがないという国語教員志望(=単に免許を取るだけ、というのではない)の実習生に出会うと驚く。驚愕する、という言葉を使った方がいいかも知れない。
 いじけた私の目で見ると、国や県が考える「教員の質」なんて、どうせろくなものではない。お上の言うことに従順で、猪突猛進、その指示に従ってしゃにむに何かをする、それが「優秀な教員」なのではないか?教科の指導力、いや、その前提となる本人の学力について質の判断をしているとは到底思えない。
 学力が危機的水準にある一方で、社会性のようなものについては、昔の私なんかよりもはるかに高水準だと思うことが多い。ただ、これも果たしてほめていいのかどうか悩ましい。と言うのも、非常に慇懃無礼で、当たり障りのない対応をするのが上手いというだけだからだ。これは上で書いた「従順」が姿を変えただけのものである。
 ともかく、教員の質が低下すると危機感を持つのなら、「質」とはいったい何なのか?それはそもそも現在の採用試験で測れる性質のものなのか?というあたりを説明して欲しい。
 さて、何を以て「質が高い」とするかはともかく、教員志望者が減り続けているということ自体は深刻である。毎日新聞では、某大学教授の言葉を引いて、志願者の減少は、団塊世代の教員が大量退職する時期に当たっていて採用数が増加し、民間の就職口にも不足がないことに加え、学校が職場としていかにブラックであるかということが、世間にも知られてきたことの表れだと分析している。間違ってはいないと思う。だが、ブラックと言えば、小学校よりむしろ中学校の方がひどいような気がするので、小学校教員希望者の減少が特に著しいというのはやや不可解だ。
 しばらく前に、私は東大法学部の不人気と、その卒業生の官僚離れの問題を取り上げた(→こちら)。教員の問題も、それと大きく重なり合う。せっかく一生懸命勉強して採用されても、政治の道具として扱われ、本来の教育活動よりもパフォーマンス的な企画の遂行や、管理監督に応えるための書類の作成に忙殺されるのではやっていられない。ごくごく一部の人による不祥事をことさらに重大視し、教員の誇りを奪い、萎縮させるような指導、施策が行われ、保護者や世間からの理不尽なバッシングに対するおびえと当局の卑屈が、それに輪をかける。
 競争率が3%だろうが10%だろうが、教員の質(=私の定義:専門教科における学力、一般的教養、哲学できること)は確実に低下していく。平和ぼけを起こし、目先の利益に翻弄されて世の中全体がレベルダウンしている中で、教職にだけ優れた人間が就くわけがない。仮に優れた人間がいたとしても、採用者側がそれを評価するだけの見識を持っていない。そして、予算もなく、政治家が教育を手放すこともない中で、志願者を増やすためのこれまたパフォーマンスが行われることだろう。しゃれにもならない世界である。
 以前からよく言うとおり、たとえ何らかの問題があるとしても、私は教員を完全に自由にし、権限と責任とを個々に与えること、それによってしか教員の質は向上しないと思うし(→参考記事=教員の不祥事について)、人気職業にはならないと思う。待遇なんて二の次、三の次だ。