「文化汚染」こそ問題だ・・・「抜本塞源」の思想を!



 組合の全国学習会にもまじめに参加した。宮城の高校からは2名、小中からは12名、そして全国からは300名あまりの人が参加していた。

 最初に、ジャーナリスト・斎藤貴男氏による講演、その後、分科会討議となる。私が参加したのは、第4分科会「民主的な学校・教育課程づくり」というところである。レポートは5本。千葉の小学校の先生の実践報告、滋賀県大津のいじめによる自殺問題の報告、岩手県陸前高田の小学校の震災から1年半の記録、埼玉県の高校の学校評価についての報告、そして、全教(全日本教職員組合)本部による全国一斉学力テストに関する調査報告であった。

 いちいち解説できないので、会の終わり頃に私が行った発言のあらましだけを、ここに載せておこうと思う。


「学力テストの実施についてT先生から、文科省が『学習指導要領』を現場に徹底させるための最後の切り札だとの指摘があった。その通りであろう。しかし、それだけではない。文科省にも国民にも、学力低下に関する危機感があるのは確かだし、その危機感は、2000年のPISA(OECDによる学習到達度調査)ショックによって作られた部分が大きいと思う。

 文科省は、PISAの結果を受けて、学力における国際的地位の向上を目指した。しかし、PISAで高得点を挙げたフィンランドとはまったく逆の方向に動いた。すなわち、フィンランドでは、政府が教員を専門職であると位置づけて、その主体性を尊重し、自由と時間とを与えた。教員は生徒に、目先の結果を求めず、競争を排して、学びへの意欲が生まれるのを根気強く待つという方法を採った。日本は、結果だけを重視し、管理統制による「対策」路線を歩んで、さまざまな教育問題を引き起こしている。これは、動機に目を向けるか、結果に目を向けるかという違いだ。

 また、この分科会では、いじめやコミュニケーションに関することも問題となった。昨日、北海道の先生が携帯電話の問題に触れておられた。私も同感である。

 学力にしても、人間関係にしても、根っこの所にそれらの発達を阻害する携帯電話、ゲーム機、アダルトビデオといった、手軽で刺激の強い文化の問題がある。それらを野放しにしておいて、全てではないにしても、それらを重要な原因として生み出されたように見える「問題」に対処しようとすることは、非効率的で虚しい作業なのではないか?そして、それらのいわば「文化汚染」とも言うべきものの規制については、組合もあまり真剣に取り組んでこなかったのではないか?

 先日、『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健著、祥伝社新書)という本を読んだ。いろいろと問題もあるが、著者の問題意識に私は大いに共鳴し、見解に納得した。それは、金になることについて、日本人は一切文句が言えないという問題だ。パチンコだけではないだろう。携帯電話でもゲーム機でも同じことだ。善悪ではなく、金になるかならないかが判断の基準なのである。欲が深いというよりも、思慮が浅く思考が単純であるために、金という分かりやすい価値に飛びつくのだろう。これは、利権に絡め取られた政治家やマスコミだけではなく、日本人全ての問題である。組合は、よく「財界」を悪者にする。しかし、どこか遠くに「財界」という魔物が住んでいるわけではない。金を全てに優先させる国民の姿を、「財界」は反映させているに過ぎない。

 極端に商業主義的な、お金優先の社会を変えていくためには、それに変わる価値観を提示することも大切だ。ここで私は、震災の教訓ということを考える。私も石巻という被災地の中心に住み、勤務先の学校がいまだに仮設校舎暮らしを余儀なくされているが、震災から私たちが得た教訓は多い。その一つに、平凡な日常の尊さを知ったこと、がある。家族が一緒にいられるのはそれだけで素晴らしい、水道から水が出、安心して食べられる物が十分あるのは感動的だという新鮮な認識である。

 私たちは、そういった平凡な幸せにこそ改めて目を向け、子供を文化汚染から救い、問題を根っこの所で解決させていくような方向へと問題意識を持つ必要があるのではないか?2日間の発表と討論を聞いて、発生した問題への対処が優先し、その背後にある文化汚染への問題意識が希薄に感じられたので、あえて発言を求めた。」


 中国に「抜本塞源」(ばっぽんそくげん)という言葉がある。『春秋左氏伝』という紀元前に書かれた書物に見られる古い言葉だ。漢字を見ればおよその見当が付くとおり、物事を根っこの所で止めるという意味だ。川の上流に、直径1センチの管から猛毒を垂れ流したとする。その管に栓をすれば、それだけで下流の汚染は完全に収まるが、いったん流れ出てしまった後で、下流の水から毒を除去するのは、とてつもなく大変な作業だ。だから、問題を解決するには、根源の所で手を打たなければならない。

 時々新聞の投書欄にも載ったりするが、まともな大人なら、子どもが今のように携帯電話やゲーム機を持ち、それに心と生活を支配されていることの恐ろしさ、じっくり落ち着いてものを考え、記憶するという作業が出来なくなっているという弊害の深刻さは誰にでも分かるはずだ。

 選挙で「教育改革」が叫ばれるたびに暗い気持ちになるのは、根っこに目をふさぎ、結果的な現象への対処を迫れば、おのずから本質に沿わない策を弄するしかないという自然法則があるからだ。

 麻薬と同じ。人間を内側から駄目にするものに対しては、「自由」をきれいな言い訳にせず、断固として排除していくことが大切である。極端なほどの自由主義者である私でさえそう思う。特に未成年においては・・・。

(参考:2011年11月10日の記事)