せり上がる(?)学校歴

 夜中、すさまじい風が吹き狂っていた。朝は、明るくなってから布団を出た。外を見てみれば、沖に宮城丸(水産高校の練習船)が停泊している。あれ?遠洋航海実習に出港したという新聞記事を水曜日に見たように思うのだが・・・。出港して間もなく、誰かがコロナかインフルエンザに感染したことが判明して、急遽戻って来たのではないか?と心配する。正確な事情はよく分からない。
 さて、同じく水曜日に、宮城県内の公立高校の「出願希望調査」というのが公表された。昔は「予備調査」と言われていたもので、公立高校受験予定者は必ず受験希望校を申告するのだが、あくまでも、本出願をする時の参考にするためのものなので、ここで○○高校と書いたからと言って、必ず○○高校に出願しなければならない、というものではない。1発出願にすると、出願した後になって、「希望校の倍率が高すぎる、これなら△△高校に出せばよかった」などと後悔することになる可能性がある。そこで、各高校の人気の度合いを測る目安を示し、出願の作戦を立てられるようにするものである。これを必要としているのは必ずしも受験生だけではない。高校教員の側からすれば、入試準備をするにあたり、検査室がいくつくらい必要になりそうだとか、二次募集の必要があるかどうかの見通しを立てるための資料になる。もっとも、「出願希望調査」のデータを見て、○○高校の倍率が高くなりそうだからといって、△△高校に出願してみると、同じようなことを考えた人がたくさんいて、やっぱり○○高校を受けた方がよかった、ということも起こりうる。結局、この情報が役に立つかどうかは分からない。
 ところで、発表された今年の「出願希望調査」を見てみると、少子化と、私立人気とによって、公立高校の状況は惨憺たるものである。宮城県全体の平均倍率が1.02倍。石巻地区はなんと0.83倍である。当然、ほとんどの学校で定員割れを起こしている。0.5倍前後の学校など、今やまったく珍しくない。
 1.02倍と言えば、入学希望者数と定数が釣り合っているわけだから、いいことではないか、というのは間違いである。なぜなら、仙台北地区は1.35倍、仙台南地区は1.23倍と、特定の地域に受験生が集中していて、郡部はスカスカ、仙台からはみ出した生徒が郡部に流れることも期待できない、というのが現実だからである。
 もっとも、定数と中学校卒業予定者数の関係など元々分かっている。県としても、毎年のように学級減や統廃合を実施して、制度と現実が釣り合うようにという努力はしている。(そんな努力はせずに、少人数学級を実現させろ、という意見はあるが、今は触れない。)
 さて、ここで問題だ。受験生の人気は、基本的に偏差値の高い高校に偏る。いわゆる底辺校は閑古鳥だ。そんなこともあって、学級減は、底辺校を中心に行われる。拠点校と言われるような旧制中学校上がりの高校では、男子高と女子高を統合する時に実質的な学級減が行われた程度で、ほとんど行われていない。すると、一昔前であれば、××高校にしか入れなかったような生徒が、△△高校に入れるようになり、△△高校に入っていたような生徒が○○高校に入るようになる。学歴、もとい学校歴はどんどんせり上がる。すると、30年前の感覚だと全然たいした成績ではない生徒が、名門○○高校生になるわけである。
 現象の特徴というのは、極端な場合を考えてみるとよく分かるのだが、この調子でいくと、ある地域には「名門○○高校」しか残らず、進学者全員が○○高校生になる。すると、かつてなら、どこの学校に行っているかで、その生徒の学力がある程度想像できたものが、今や全然想像できない、ということになる。すると、学校の看板には意味がない、生徒一人一人の力を評価しよう、ということにな・・・ればとてもいいのだが、果たしてそうなるだろうか?外部からの評価はともかく、○○高校生となったことによって、中身は何も伴っていないのに、「私は○○高校生だ」といって自信過剰になる生徒が、相当数生まれてくるような気がする。過剰な自信やプライドによってモチベーションを高め、かつての○○高校生にふさわしい実力を身に付けるべく努力をしてくれれば文句はないが、ただ気位が高くなっただけの生徒は手に負えない。
 私は、日本の世の中全体で、高校のみならず大学においても、同様の現象が既に起きつつあるのではないか、と危惧している。「学問」や「自分」に対して謙虚でなければ、○○大学生、○○高校生であることにあぐらをかき、勉強もせず、仕事するにしても「そんなことは俺のやることではない」と言って選り好みをする。すると、どこかの国のように、汚い仕事は外国人労働者に任せ、日本人はそのプライドを満足させるような管理職やぜいたく産業のような分野に偏る、ということになってしまう。しかし、それが許されとしても、一時であろう。実力の無い人間は、やがて必ず行き詰まり、ぼろを出す。
 どの学力層の生徒が入る学校も均等に学級減を行うか、社会全体で「学校の看板には意味がない、一人一人の能力を公正な目で見よう」という共通認識をしっかり持つか、どちらかが必要であろう。