それはそれ、これはこれ

 COP29が閉会した。温室効果ガスの排出抑制よりも、温暖化によって被害を受ける発展途上国への資金援助がより重要な論点だったように見える。温室効果ガスの排出抑制に関して、日本は常に批判される側だ。見ていれば、当然のことだろうと自然に納得できる。ところが、わずか1日後、経産省環境省は、2030年度までに2013年度比で60%減、2040年度までに73%減とする案を公表した。
 私には、日本政府が温暖化に危機感を持っているようにも、そんな目標を真面目に実行しようと考えているようにも見えない。少なくとも過去の実績を見る限り、経済成長は絶対に譲れない優先事項だし、温暖化対策は全て「やったふり」である。悪意的な想像をして申し訳ないが、電気自動車の製造、風力や太陽光発電システムの建設に費やす化石燃料は、初期投資としてゼロカウントにした上で、順調に発電が行われ、それを消費しているサイクルの部分だけを取り上げて、「60%減達成!」などと喧伝するのではないだろうか?
 自分が使った言葉によって、自分の内でマイブームを起こすのは決まりが悪いのだが、最近、「それはそれ、これはこれ」という言葉がよく頭に浮かんでくる。先日、丸山真男「“である”ことと“する”こと」が長く国語の教科書に載り、「する」論理が、いかにも近代的な民主主義社会の基礎であるかのような勉強をさせながら、学校がそれとは似ても似つかぬ「である」組織から抜け出せないことについて、私が使った言葉だ(→こちら)。
 新聞の第1面で踊る「温室ガス35年度60%減」などという見出しを見ながら、一方で、政府や自治体が進める経済活性化策を思い浮かべるに付けても、「それはそれ、これはこれ」という言葉が浮かんでくる。
 温室効果ガス(基本的にはCO₂)を盛んに出しているのは、直接であるか間接であるかを問わず、私たち自身の生活である。自分の生活を見直すことを抜きにして、CO₂排出抑制はあり得ない。少なくとも、私の認識はそうだ。しかし、世間一般の人たちにとっては必ずしもそうではない。自分たちの豊かな生活には何も問題がなく、むしろ、更に豊かな生活を求め、それでいて、温暖化が深刻な問題だと言われれば、どこかの誰かの話のようにうなずく。飛行機が飛ぶことも、個人が自家用車を持ち、好き勝手に利用していることも、そのために後から後から道路が作られていることも、立派なビルや大型商業施設が作られることも、そのために膨大な化石燃料を燃やして石灰石を掘り、セメントを作っていることも、使い捨て容器や道具が身の回りにあふれていることも、何一つ地球規模での温暖化とは接点を持っていないようだ。「それはそれ、これはこれ」なのだ。
 また、問題は認識しつつ、議席数が30にも満たない少数政党の言っていることだからと、さほど深刻に受け止めていなかった「103万円の壁」廃止(変更)や「ガソリン税」引き下げ(トリガー条項の凍結解除)が、政治的な駆け引きの中で現実味を帯びてきた。「手取りを増やす」というのが根っこにある考え方だそうだが、そんなことをすれば公の財布にダメージが生じたり、化石燃料の消費が増えたりして、更に大きく、困った問題を生むことは当たり前ではないか(→この問題について)。だが、目の前の金(カネ)に目がくらんだ人間には、そういうものがあまり見えないらしい。財政上の問題から難色を示している財務省も一部の政治家も、まるで悪意で足を引っ張っているかのように、バッシングの対象になっているという。おそらく、「それはそれ、これはこれ」であって、多くの人にとってリンクする問題ではないのだ。
 とにかく、身の回りにある困った問題を見ていると、ほとんど全てと言ってよいほどに、「それはそれ、これはこれ」の論理(これを論理と言うのかな?)が働き、自分にとって都合がいいようにばかり考えていることが見えてくる。やはり、正義を目指すことと、広い範囲が見えているということとは表裏一体なのだ。そして、「それはそれ、これはこれ」は、広い範囲が見えていないということなのだ。困ったものだな、「それはそれ、これはこれ」。