誇り取り戻す解決策を・・・『河北新報』持論時論



 このブログの11月20日の記事「教員不祥事私見」を、規定に合うように多少整理して『河北新報』に投稿してみたところ、今日の朝刊第5面に掲載された。面倒な解説は抜きにして、ここにも載せておこうと思う。語句を修正されたところは少しあるが、内容に関わるものではなく、ほぼ投稿原稿通りの記事である。ただし、「教員の不祥事 誇り取り戻す解決策を」という見出しは、『河北新報』の方で付けたものである。


「最近、教員の不祥事が非常に大きく問題視されている。数だけの問題ではなく、内容が甚だ破廉恥で目に余るからなのだろう。今に始まったことでもないが、この1ヶ月、少し様相が違うのは、不祥事の背後に「ストレス」(県知事)や「多忙化」(教育長)の存在を認め、必ずしも不祥事を起こした本人に全てを押しつけるわけではないような発言が、県の中枢から出始めたということである。これは一歩前進と評価してよいだろう。だが、その後の「対策」を聞いていると、ストレスや多忙の本質がよく理解されているとは到底思えない。現場にいる一人として、私のその背景について思い至ることを書いておきたい。

 私は、宮城県の教員になって22年目を過ごしている。職場環境は、この22年で激変した。あらゆる意味で、今は窮屈である。確かに、学力低下不登校といった、世の中の変化に伴う教育的課題は増えたし、マスコミの目も厳しくなった。しかし、むしろ深刻なのは、国や県が一般教員の地位を低下させてきたこと、である。

 県立高校における県の力は、法律上のみならず、実質的に信じられないほど強大化した。「お願い」という形の「命令」は増え、「ほうれんそう」とか言って、些事に至るまで管理職への「報告・連絡・相談」が義務づけられ、教員が自ら判断することが許される範囲が非常に狭まった。会議や県主催の様々な研修会はむやみに増えた上、「宿題」が課せられるようになり、しかも提出前に現場管理職のチェックが入る学校も増えた。「綱紀の粛正」「服務規律の徹底」をうるさく言われるようになって、不祥事対策らしき書類や手続きが山のように増えた。ここに一貫している県の姿勢は、「あなた達は信用していませんよ」ということであり、「あなた自身の教育的信条や判断なんてどうでもいいことですから、お上の言う通りやりなさいよ」ということだ。そして、増えたのは会議やパソコンに向う時間であり、生徒と接する時間の確保には苦労するようになった。

 これらが、「多忙」と「ストレス」の具体的な中身である。一昔前のように、教員が使命感と自らの教育的信条に基づき、同僚と話し合いながら、誇りを持って働けるのなら、「多忙」は必ずしも問題ではない。自分が軽い存在となり、何の意味があるのか分からないような、もしくは、実情に基づくよりもタテマエが優先するような仕事を強いられ、生徒と関わり合う時間が削られていく時、「多忙」は「ストレス」なのである。

 「誇り」を失い、判断力を鈍らせた人間が破廉恥な行為に走るというのは、自然な流れであろう。国や県がひたすら従順な教員作りに努めてきたことは、教員の自治や自己管理能力を衰退させるという強い副作用を伴うものであったことに、今気付くべきなのである。

 状況は複雑で、原因を一つに絞り込むことなど出来ない。しかし、一人一人の教員に、どのようにして「誇り」と内発的な自己管理能力を取り戻させるのか、この観点なくして不祥事の克服はないとも思う。現在語られている新たな「研修」の創設といった対策は、管理を強化する方向ばかりだ。それは不祥事の増加を加速させ、職場の活力を失わせるものではあっても、決して解決させるものではない。解決のためには、長い目で見ながら、現場の職員を信頼して任せるしかない。私が見てきた教員の圧倒的多数は、私自身頭が下がるほど献身的で意識が高く、真面目な人達であった。」