年賀状の季節に・・・プライバシーの問題



 年賀状を書く季節である。宮城県には『宮城県教職員録』というものがある。県内全ての学校と教育関係機関、団体およびその構成員を網羅する名簿である。10年余り前までは、この名簿を見ながら年賀状の宛名書きをしたものである。そこには、教職員の名前はもとより、担当教科、号俸(給与額が分かると同時に、およその年齢も推測できる)、自宅住所が載っていた。ところが、10年ほど前に、「プライバシー」に関わるからということで、本人の意思で住所や号俸は載せなくてもいいことになり、虫食いになり始めたと思ったら、やがて載せないことが当然で載せることが特殊となり、今や、遂に本人の意思に関係なく、名前だけしか載らなくなってしまった。教科すら載っていない。当然、年賀状の宛名書きにはまったく役に立たない。聞くところによれば、隣の福島県などは、教職員の個人名の掲載すら止めてしまったという。

 しばらく前から、私は、この「プライバシー」というものがなかなかくせ者だと思うようになっていた。比較的最近の新聞(『朝日』だったかな?)の投書でも、それは「自分勝手」を正当化する手段なのではないか、というような内容のものが立て続けに二度ほど出たと記憶する。その通りだと思う。そして「プライバシー」は、憲法第13条に基づく「新しい人権」という高邁な理論にも裏付けられ、核家族化→個室化→携帯電話という流れの中で、煩わしい人間関係を拒否するために、その存在感を増してきた、と思われる。世の中には変な犯罪も増えているが、一方、助け合わなくても生きていけるほど世の中は平和で豊かだ。

 確かに人間関係というものは煩わしい。機械は言うことを聞くが、人間は言うことを聞いてくれない。いっそのこと他人と一切関わることがなければどんなに清々するか、ということは私だってよく思う。しかし、幸か不幸か、人間は一人では絶対に生きてゆけない。だとすれば、人と関わり合いながら生きて行くための様々な技は習得しなければならず、それは人間と実際に接することを通してしか身に付かない。

 私の尊敬する宮大工・小川三夫氏は著書『不揃いの木を組む』(草思社)で次のように言う。

 「うちは修業中は飯も一緒、仕事も一緒、寝るのも、刃物研ぎもみんな一緒だ。極端なことを言うようだけど、子供に個室なんてつくってやるから、みんなだめになっちゃうんだな。(中略)一緒に暮らして一緒に飯を食っているから、言葉でいわんでもあいつが何を考えているかがわかるんや。そういう雰囲気、ふれあいが大事なんや。(中略)人間、一人で考えたってろくなものじゃないぞ。答えがわからなくたって、ほかの人を見ていればわかってくることもある。わからないやつが一人で考えたり悩んだって、答えなんか見つからないよ。(中略)答えは外にあるんだ。ほかの人が見せてくれているんだ。そういうものだ。」

 「心も、やはり一人では育たんで。集団でなければ育たない。集団というものが大切だ。それは大部屋で暮らすことや。ここにいれば、お風呂を先にもらいますというだけでも、先に使うんだからなるべく汚さないようにしようとか、ご飯だって、せっかく作ってくれたんだから残さないように食おうとか、一つひとつ相手のことを考えるようになる。」

ここに表れていることについて、解説は要るまい。

 ゼロか百かという選択をしてはいけないが、人は人と関わり合わずには生きていけないのだから、「プライバシー」を盾にした秘密化は最少限に止められなければならないと思う。住所が分からないから年賀状も出せない。出すなら勤務先にするしかない。それは失うことも大きいのではあるまいか。これもまた「小さな利益が目前に、大きな不利益が将来に」なのである。