議員の罪はどう問われるべきか・・・小沢氏問題に寄せて



 どういう順番だったか記憶がはっきりしないが、尾を引く沖縄の基地問題、法相の更迭、尖閣諸島及びそのビデオ流出問題、検察の不祥事、官房長官国土交通相の問責決議、小沢一郎問題・・・と、これでもかこれでもかとばかりいろいろな問題が起きる。野党は、この時とばかりに、民主党またはその責任者たる首相いじめをする。確かに、民主党政権運営もひどいけれど、国会で前向きな議論をせず、あら探しのようなことばかりやっているのもいかがなものかと思う。問題のある人が政権を担当しているよりも、マイナスは更に大きいのではないか。と同時に、政権を維持して行くというのは大変だなぁ、とも思う。だいたい、人のやっている事というのはんなことでも簡単に見え、どうしてこんな事も出来ないのか、と思うことが多いものだが、政権担当者(首相)については、少なくとも私は、自分なら出来るなんて全然思わない。民主党の面々だって、せっかく政権の座には就いたものの、いざこざの処理にばかり追われ、しかもお金がないからやりたいことも出来ないとあっては、疲れるばかりで楽しくもなければ、やり甲斐もないに違いない。

 ところで、数あるもめ事の中で、目下最大級のものと言えば、小沢一郎氏の国会招致問題であろう。「たかが」政治資金規正法違反でこれだけ国会が紛糾するということについて、どのように考えるべきだろうか?

 小沢氏がいかがわしげな金の扱い方をして、遂に強制起訴ということになったのだから、彼のグレーな部分については、徹底的に明らかにすべきである、だとすれば、政治倫理審査会でも証人喚問でも開いて、真実を明らかにすべきだ・・・こう考えるのは一見正論である。小沢氏がそれらに応じないなんてケシカラン、と憤る人も多いに違いない。

 しかし、そもそも政倫審とか証人喚問とかいったもの(特に後者)は、もともと司法との関係で問題のある規定である。三権分立というシステムの中で、司法というものが存在していながら、国会であえて国会議員の「悪事」を問い質すことにどのような意味があるかということは、冷静に考えてみる必要があるだろう。

 私は、それらを行って政治家の「悪」を問い質す必要があるとすれば、司法の判断を待てないほど緊急の事態である場合、つまりは、その人のしたことをそのままにしておいたのでは、今後の国会の議決に影響があるという場合に限るべきなのではないかと思っている。もう少し具体的に言うなら、それは、その人が議院の要職にあるとか、ロッキード事件のような大規模な賄賂事件のような場合である。

 このような考えに従えば、小沢氏を国会で招致する価値は非常に小さい、と言わざるを得ない。小沢氏自身が言うように、司法の場で真実を明らかにすればよいのである。司法で下す判断(判決)は、直接議員の身分をどうこうするわけではないけれども、一定以上の刑を伴う有罪判決が出れば、議院の身分を失うことになるという公職選挙法の規定もあるのだから、国会が裁判所の判決とは別に、あえて議員資格を議論する必要性もない(微罪または無罪となっても、議員資格を剥奪すべきだという理屈がある場合は別)。

今の大騒ぎは、あえて与党の弱点を追求して、自分たちの立場を強化したいという野党の魂胆と、議席数が少なくて、野党の言うことを聞かないと行き詰まってしまう与党の困惑とが、絡まり合って起こっていることに過ぎないのではないか。つまり、国会の国政調査権あるいは議院の倫理審査は本来どうあるべきかという哲学的な思考をせず、どうすれば与党を追い詰めることが出来、どうすれば野党が納得するかという、いわば打算的な考え方をしたところに、今回のごたごたの貧しさがある。これは、今回の事件に限らず、いろいろな場面で見られる考え方であり、これが結果として社会を悪くする原因になっている、と私は思う。理念に立脚した毅然とした説明や対応を取れない与党も、あら探しのようなことばかりやっているかのような野党も、それに乗せられているかのような国民も、それぞれに情けない。

 不正の疑いを追及し、真実を明らかにすることには意味があったとしても、不正の疑い+それを問い質す場=すべて善、と考えるのは短絡的に過ぎ、危険である。少なくとも、この件について物を言う時には、国会の調査権と司法との関係だけはしっかりと考え、それらが本来どういう位置づけであるべきなのかという答えを出してからにすべきであろう。

(補)

 現在の国会における野党の所行について、私は上で「あら探し」と書いた。これに関連して、非常に立派な投書記事を発見したので紹介しておく。本当は全文引用したいところなのだが、著作権上許されないようなので、出来ない。12月26日『朝日新聞』の三輪秀興氏(65歳、無職、神戸市須磨区)による、「仙谷発言「言いよう」あったか」というものである。

 そこで氏は、仙谷官房長官の「暴力装置」(自衛隊に関して)「甘受」(沖縄の基地負担について)という言葉批判を取り上げ、更には12月3日『同 夕刊』(私が住むような田舎では4日の朝刊)掲載の苅部直ウェーバー読みすぎまして 『暴力装置』こんなユーモアあれば」という記事(←これも好論で、私もブログで取り上げようかなと思っていた)に触れながら、前者についての批判を「言葉狩りに過ぎないだろう」と批判し、後者については「政治状況を考慮すれば、万人が納得できる言葉などあるのか疑問である」と述べている。まったく同感である。

 ただし実は、三輪氏の投書は、野党ではなく、12月16日『同』天声人語に対するものである。新聞のコラムを「国民」の声の一部と考えるならば、上の私の文章における「国民も」の補完の形になるが、まぁ、私が見るに「与党も」「野党も」結局似たようなものなので、その辺はどうでもいいようにも思う。