「哲学」のない時代



 3月2日の『河北新報』に「教員の破廉恥行為やまず(仙台)・・・市教委、防止策手詰まり 専門家「性教育を」」という記事が載った。あ〜あ、またか、と思う。仙台市限定の記事だが、おそらく県内全体でも似たり寄ったりであろう。

 教員の問題行動を是認するわけにはいかないけれど、一方で、共感しながら記事を読むこともない。いつも記事の内容自体に問題を感じる。

 今回の記事でも、平成12年6月から今年2月までの間に仙台市内の小中学校で起こった、6件の「破廉恥行為」が紹介されているが、果たして、これが本当に多いのかどうか、という問題である。いかにも増えているかのように言われることの多い刑法犯にしても、警察庁による発生率統計を見てみると、実は変わっていない、見方によっては減ってさえいる。だから、「多い」とか「増えた」は、感覚的にではなく、客観的にデータに基づいて本当に「多い」のか?本当に「増えた」のかが考えられなければならない

 「破廉恥行為」に一番近いと思われる「強制わいせつ」の人口10万人当たり発生率は、2012年度で5.7件で、仙台市の教員が2年で6件起こしたとすれば、職員数が1万人としても、通常の5倍の発生率となり、やっぱり教員は狂っている、ということになる。しかし、「破廉恥行為」の内容は、盗撮やストーカー的行為などであり、「強制わいせつ」と同列には論じられないだろう。

 最近、人々は「決してあってはならないこと」とか「二度と起こしてはならない」という言葉を、私なんかは赤面するほど気軽に使う。その観点からいえば、教員の不祥事はゼロでなければ許せない、ということになるのだろう。しかし、教員も人間である。人間は常に不完全だ。他の職種の人たちによる破廉恥行為の記事も頻繁に目にする中、教員だけにゼロを求めるのは、「人間」もしくは「自然」というものが分かっていない、と思われる。私は、教員の「破廉恥行為」率は、世間一般と比べて決して高くないと思う。立場上目立つということと、インターネットも含めたメディアの発達で、情報が大きく、拡散しやすくなった結果、実際以上にひどく見えるようになった、というだけではないのだろうか?

 仮に、教員が一般の人々よりも高い率で不祥事を起こすとした場合、もしくは、ゼロとは言わないまでも、一般人よりも相当に低くあるべき不祥事率が、期待するほど低くはないという点を問題視する場合、なぜ教員がそうなるのかということを、掘り下げて考えなければならない。

 異常な人間が教員を志す、もしくは、学校は異常な人間が採用されやすい、と考えることには相当な無理がある。教員になった人間の多くは、教師という仕事に対する憧れと夢とを持ってなったはずだ。今の教員採用試験は非常に「高い壁」である。20代前半での合格は少数派で、いろいろな意味で恵まれない「講師」をしながら何年も採用試験を受け続け、30歳前後、あるいはそれ以上になってからようやく合格して教員になる人も少なくない。彼らが、一度合格しさえすれば、公務員として一生安泰だ、などというモチベーションで努力を続けているとは到底考えられない。私の目から見ても、教員になる人には勤勉・献身的な情熱家がとても多いのである。

 ところが、そんな思いをしてようやく教員になりながら、1〜2年で退職してしまう教員は多い。有名な厚生労働省のデータによれば、学校だけではなく塾や予備校も含むが、大卒者の卒業後3年以内の離職率で、「教育・学習支援業」の48.9%(平成22年度の場合)が職種別のトップである。また、文部科学省によれば、全国で毎年約5500人、率で0.6%の教員が精神疾患で病気休職するという。

 だとすれば、やはり学校という場所に何かしら大きな問題があり、それが「破廉恥行為」を誘発するのではないか、という方向で考え、学校という場所の何が彼らを追い込んでいくのか、ということを真面目に考えるしかないではないか。

 記事では、見出しにもあるとおり、教育大学所属の「専門家」が、「大人向けの性教育を本気で検討した方がいい」などと語っている。世間一般の人はこれを読んで、「なるほど確かにそうだ」「さすがは専門家だ」などと思うのだろうか?少なくとも、現場の教師であれば全員が、アホじゃなかろうか、と舌打ちをし、眉間にしわを寄せるに違いないのである。何かが起これば、対症療法として研修が増える。それで、もともと多忙な学校は益々多忙となり、教師は生徒と向き合う時間を奪われる。しかも、「研修」は「やっています」「頑張っています」と世間にアピールするためのパフォーマンスである場合がほとんどだ。

 教育行政は考え方ややり方の多様性を認めず、お上の方針に従い「命令」で学校を動かそうとし、問題は現場教師の責任。親やマスコミに対しては卑屈に頭を下げるくせに、教員に対しては強圧的で居丈高。こうして、教員の使命感や誇りをズタズタにし、教員本来の生徒との接触や、試行錯誤、研究のための時間を奪う。そんな中にこそ、「破廉恥行為」も生まれてくる。使命感やプライドといったもので内側から支えられている人間は、悪いことなんかしないのである。「破廉恥行為」も「精神疾患」も根は同じだ。

 現象の末端だけを見て、本質に反する対症療法を施す。なぜそんな現象が起こるかについての掘り下げは為されない。若しくは、あえて避ける。その結果、ますます解決からは遠離る。私は、それを「哲学がない」と言う。「哲学」とは、物事が本来どうあるべきかということについての徹底的な掘り下げのことだ。ただ、「哲学のない」教育行政の在り方は、何段階も経て遠回しに有権者によって支えられている。社会全体の構造的な問題なのである。まずはそこを観念し、「破廉恥行為」をした教員や、他の誰かの責任にして済ませることを止めなければ・・・。

 

(参考)http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20101224/1293194509

    http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20040301/1262099557