民主主義再考・・・おとといの補足



 一昨日、教職員組合の性質に触れながら、戦後、学校という場所がどうなったか、というような話を書いた。権力者による教育の支配とか、上意下達の徹底とかいうことを、さも問題であるかのように書くと、決まって疑問を呈する人がいる。それは、確かに戦前・戦中の学校が政府と軍の宣伝塔になって、侵略戦争の遂行に手を貸したとは言っても、当時と今とでは国家の意思決定のシステムが違うのだから、政府の決定に従い、それを徹底させることが、戦争の教訓を裏切ることにはならない、という意見である。

 この点については、過去に、様々な問題に触れては何度も書いているのだが、このブログを見ている人が、そんな昔の文章を読んで憶えているとは限らないので、改めて書いておこうと思う。意思決定が民主的ルールに則って行われていても、決定を教育現場に強制し、政権担当者が教育を支配するのはやはり非常にまずいことなのである。問題は主に二点ある。

 ひとつは、選挙で多数派になるというのは、少数派よりもより一層「真」だからではないということから生まれる問題だ。人はすべて自由・平等である。にもかかわらず、民主的な手続きに則って決まったからといって決定を押し付けることがあるとすれば、多数派の人権と自由を100%守り、少数派の人権と自由はゼロでもいい、ということになってしまう。しかも、選挙の争点はどうしても限られるので、それ以外の問題については、どれだけまじめに考えられているかが分かりにくい。だから、決める必要の無いことを決めて、反対する人に無理強いするとか、尊重できる自由まで剥奪するとかはあってはならない。教育現場には、日の丸・君が代のみならず、どうでもいいことの無理強いと管理が非常に多い。

 もうひとつは、民主主義が、多様な意見の存在を認める中でしか問い直されず、問い直しがなければ常に最善の選択を目指すという機能が作動しない、ということである。これは、純化された集団は脆弱であって、集団が柔軟・強靱であるためには多様性を持っていることが必要だという生物学的法則に基づくことでもある。

 二つ目の点は分かりやすいのだが、一つ目の点は決して分かりやすいものではなく、だからこそ、民主的なルールに則って決まったことには、内容の如何に関係なく、従うのが当然、という発想が生まれてくるのだ。6月の末に、参議院で首相問責決議案が可決された時に、私はあまりのバカバカしさに言葉を失ったのであるが、思えば、新聞がどう書こうが、世間がどう批判しようが、懲りることなく繰り返される政権抗争(泥仕合)は、主導権を持つか持たないかで、強いる側と強いられる側という極端な立場の違いが生まれてしまうことから発生したものであり、それは民主主義に対する考え方を変える、若しくは誤解を解くことによって解決するのではないだろうか。

 私がこのようなことを考えるようになったのは、一昨年、フィンランドの教育システムについて考察し、フィンランド政府が学校にどのような姿勢で接しているかを知った時からである。 私はフィンランド政府の姿勢について、「国の教育政策や国家カリキュラムの現場にとっての妥当性を検証し、また、学校が抱える問題の改善をどのように支援したらよいかという観点で為されているようだ。管理監督ではなく、サポートなのである。もちろん、人事考課制度のようなものは存在しない」と書いた。この時私は、民主主義とは、正に「民が主」であるシステムなのだ、という当然のことに思い至ったのである。民から権限を与えられた政府が、その権限で民を支配するのではなく、政府は常に多様な民のために動くのである。このように考えれば、政権抗争にはあまり意味が無い、ということになるだろう。

 現在、自民党衆議院で圧倒的な勢力を誇っているが、昨年の衆議院議員選挙で、自民党に投票した人は国民(投票者ではない)の24%に過ぎない。いくら投票に行かなかった人を白紙委任扱いにするとは言っても、投票に行かなかった理由は様々であるはずだから、限度というものがある。まして、国民に対して24%の得票率で議席を多く得たからと言って、自分らの思い通りのことを決定し、民主的な決定だと言って人を支配するというのが許されてよいはずがない。ただ、今の日本で起こっていることというのは、そういうことなのである。

(参考)

2012年3月19日記事(http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20120319/1332165480

2011年10月28日記事(http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20111028/1319805051

同1月22日記事(http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20110122/1295703252