主権者教育は政治的自由の上に立つ



 選挙権を18歳から持てるようにする法律が可決した。230対0、正に全会一致での可決だという。私には、いいのか悪いのかよく分からない。若者に、社会に対する関心を持ってもらうためのきっかけになるのは確かだと思う。しかし、投票数は増えても、投票率は上がらないだろうし、何より、重要性を増すであろう学校における主権者教育(選挙権を行使するための教育)に不安があるからである。

 例えば、日の丸・君が代が、強制的に全ての学校現場(入学式・卒業式)に持ち込まれてから20年近くが経つ。今までも何度となく書いてきたとおり(→例1例2。もっといい例あるかも。)、これは国旗国歌にどんな旗や歌がふさわしいかという問題でも、「国を愛する」という問題でもない。旗と歌は、政治権力が教育の上に君臨し、自分たちの意思で支配しているということを誇示するための道具である。盛んな反対意見を、国旗国歌法という法律まで作って押さえつけ、公立学校における実施率100%を実現させて以来、とにかく現場教職員には諦めの雰囲気が強く、熱い議論が行われなくなってしまった。政治に関わることは危険なことであり、余計なことである。だから、「与えられた仕事を精一杯行う」という受動的な積極姿勢を取る人が増えたのである。教職員組合の勧誘をしても、「組合は学校をよくすると言いながら、政治的だから嫌です」などということを、なんの疑問もためらいもなく口にする人に出会う。これらの姿勢は、政治に距離を置き、中立の旗の下に、間接的、もしくは無作為に与党を支持し、その政権を支える勢力として機能する(→参考記事)。

 いったい、人間の言葉が、どのような時に力を持つかと言えば、自分の体験や本心に基づき、情熱を持って相手に何かを語る時である。政治に背中を向け、危ないから触れたくないと思いつつ、政治経済の教科書を手に、通り一遍、民主主義の基本的なシステムや社会問題について講じても、そんな言葉が生き生きとした力を持つことはない。生徒が政治に対して真剣に向き合い、考えるように教育するためには、教育者が主権者として真剣に政治に向き合い、単に一票を投じるという以上の活動をしていることがどうしても必要だ、と私は思う。

 もちろん、そうすれば、自ずから教員の個人的な「色」が出ることは避けられない。場合によっては、公務員の中立性を逸脱したと批判の対象になるだろう。だが、個々人の異なる政治姿勢が表面化し、ぶつかり合っていてこそ、それは最高の教材になるのだし、様々な政治姿勢が入り交じることで、全体としてバランスが取れると考えるべきなのである。

 「中立」は単なる美名である。是々非々で物事を考えるのはよい。先入観や偏見から自由になり、虚心に物事を見つめ、考えることも大切なことだ。しかし、最初から「中立」というものを目指してしまえば、その時の政策を容認もしくは黙認するのと同じ結果を生み出してしまう。公務員に求められる「中立」とは、政治思想の如何に関わらず分け隔てなくサービスに務めるということであるべきだ。

 18歳に選挙権を与え、学校における主権者教育を充実させるのであれば、権力が自分たちの都合のいいように教育をコントロールする姿勢を改めなければならない。教職員にももっともっと政治的な自由を与えなければいけない。もちろん、新しい安全保障法制に関し、これだけ多くの著名な憲法学者違憲だと言っている中でさえ、絶対に自分たちの考えを変えようとしない首相であり、自民党である。自分たちの考えこそが「正義」である。そんな彼らに、教育の管理を止めろと言っても、聞く耳を持つはずがない。判例においても、裁判所は公務員の政治活動を過剰に制限する傾向が強い。しかし、その点で争い、勝負していかなければ、覚えず、学校が若者に与党への投票を誘導するようなことになる。18歳への選挙年齢引き下げは諸刃の剣である。状況は非常に厳しいが、その辺のことをよくよく肝に銘じなければ。