「国の指針を・・・」えっ!?



 昨日、18歳選挙権に関する私の危惧を書いた。その補足みたいな話。

 今日の新聞を見ていると、似たような心配、そして似て非なる心配がたくさん目に付いた。

 選挙権を得る年齢が18であろうが、20であろうが、学校が果たすべき役割、教えるべき内容に変わりがあるとは思えない。しかし、それでも、将来のこととして教えるのと、いま目の前のこととして教えるのは、意識において大きな違いがあるらしい。新聞には、現場教職員の当惑のようなものに触れた記事が多かった。

 そんな中で、『読売新聞』は、都立高校公民科の男性教諭(55歳)の、「選挙を扱う際の注意点などについて、国が明確な指針を示してほしい」という意見を紹介していた。まるでブラックジョークだな。政治や選挙について、どういう扱い方をすれば健全な主権者を育て、民主主義を維持・発展させられるかという観点で、教える者自身が判断すればいいものを、こわいから、国に指針を示して欲しいと言う。国が指針を示せば、次は、指針が守られているかどうかをチェックする必要が生じてくる。かくして、今まで以上に教育は国の管理に服し、民主主義はどんどん機能不全に陥っていく。某教諭は、自ら進んでその道を開こうとしているのだ。

 こんな人がよりによって公民科の教諭であるというのも困った話だが、おそらく、東京は石原都政の時代に、私なんか想像すら出来ないほど過酷な管理統制が進んだ、その中で、必要やむを得ざる保身のために、国の指針を求めるという処世術を身に付けざるを得なかったのだ、とも考えられる。同時に、この発言によってこそ、一般の人々は今の学校現場の雰囲気を感じ取ってくれなければならない。確かに某教諭は不甲斐ないが、その人だけを責めて済むものではない。

 なお、私は国語の教員なので、文字によって情報を正確に受容するためのトレーニングをすることが、自分の果たすべき役割である。わざわざ政治を扱った文章をテキストとして使わなければ、政治教育ができないとも考えていない。だが、生徒がどこかで得た情報に基づき、興味を持って時事問題について私の意見や解説を求めてきたら、私は個人的な意見であると断った上で、正直に話をし、違う立場の意見についても解説をするだろう。教員というのは、自分をさらけ出すことによってしか、生徒と人間的な交わりを作り出していくことが出来ず、人間的な交わりのないところに、教育は存在し得ないと信じているからである。

 それでも、新しい安全保障法制を、自民党がなぜ合憲と考えているかについての解説は出来ない。政治的な立場の問題ではなく、国語の問題としてだ。今の(←あえて「今の」と書く)自民党の意見が理解できないということが、十分な国語力がないということだとしたら、私の教員免許剥奪→失職は近い?