心配の早すぎる現実化



 先週土曜日の毎日新聞で知ったのだが、山口県の某県立高校で行われた安全保障法案についての授業が、議会で問題視されたらしい。それによれば、2年生の「現代社会」で日経と朝日の記事を読み比べて議論し、グループごとに意見を発表、どのグループが最も説得力があったか模擬投票を実施した、という。この授業について、某自民党議員が「政治的中立に反するのではないか」と質問したところ、教育長は、投票を実施した点を問題視した上で、「主権者教育の進め方について学校への指導が不十分」であったと監督責任に言及し、今後、新たな指針を学校に示すと述べた、ということだ。

 授業で生徒に読み取りと議論をさせた日経、朝日の記事がどのようなものか知らないが、新聞名を見ただけで、バランスに配慮したのだろうということは想像が付く。だとすれば、授業の内容に問題があったようには思えない。少なくとも、明らかにおかしい、というものではなかったのではないか。某自民党議員が、どの点を以て「政治的中立に反する」と言ったのかも定かでないが、教育長の答弁を見るに、問題の中心は投票を実施したという点にあるのかも知れない。もちろん、これは「模擬投票」であって、教諭だってその結果を「正解」としたのではなく、あくまでも参考として実施したに過ぎないだろう。ちなみに、結果は、「非戦闘地域での食料供給や治療(医療)でも貢献できる。戦争に巻き込まれてからでは遅い」と反対意見を訴えたグループが最多の11票を獲得したという。

 思えば、職員会議での多数決の禁止など、「模擬」でなくても多数決に対する圧力は存在する。国会では、最終的に多数決で物事が決まるにもかかわらず、なぜ多数決が批判されなければならないのだろうか?それは、意思がはっきりと見えてしまうために、政権(権力)の意に沿わない結果が出た時に、ごまかすことが出来なくなるからであると、私は想像する。もちろん、多数決という手段を用いずに結論が出るなら、それに越したことはない(今春、坂井豊貴『多数決を疑う〜社会的選択理論とは何か』という岩波新書が出て話題になっていますね。いい本だと思いますが、詳しくはいずれまた)。だが、現実にはそれが必要な場合もあるのだから、その問題も含めて授業で扱うことは大切であり、模擬投票という実践はそのための効果的な一つの方法として考えられる。だが、権力者には気にくわない。気にくわないことは、何かしらの理由を付けて潰そうとする。議会で認められて就任した教育長も同じ穴の狢なんだから、理念に基づいてその政治的圧力に抵抗するなどという期待はできない。そして今回の問題に対する対応も、残念ながらそのとおりである。

 先日、選挙年齢を18歳に引き下げる法案が可決した時に、私が述べた心配(→こちら。そして参考)は早くも現実化したわけだ。私が特別に敏感でなくても、それは容易に想像できたことであるが、それでも、現実化の早さは私の想像をも上回っていた。中立性について批判をされないためには、「文部科学省検定済み教科書」を忠実になぞるしかないのだな。中立というのは、政権の主張を真と考える、という意味だ。

 日の丸君が代をもう一度考えてみよう。そこから分かることは、権力は教育を絶対に手放さない、ということだ。選挙年齢が2歳下がることで、その本質に何かの変化が生じるなどということはあり得ない。だが、そんな権力の姿勢と性質は、少し注意深く政治を見ていればあからさまに見えることだ。それでも、選挙の時にそれがほとんど問題とされないのは、日本人の意識レベルを表している。やはり、悪いのは国民全体なのだ。

 今日の毎日新聞に、山口での出来事についてのものも含め、有権者教育についての二つの投書が載った。どちらも立派なものである。だが、それに触発される形で、私も触れておこうという気になった。