学術は机上の空論たれ・・・か?



 以前、「「中立」という与党支持」という一文を書いた。公所に政治的「中立」を求め、公所が過敏に反応しすぎた結果として、政治的問題を公的な場所で扱うことが難しくなっている、それは結果として与党の立場を利することにしかならないから中立ではない、というような話である(→原文)。その傾向は、強まることはあっても弱まったりなんかしていない。最近は、ジュンク堂書店渋谷店で自由と民主主義をテーマとしたフェアが、「偏っている」という批判を受けて中止になったとか、宮城県内の某高校で社会科学部による全校生徒対象のアンケートが、「政治的に偏っている」という外部からの指摘で撤回された、といった話があった。

 新聞報道によれば、ジュンク堂書店に対する批判はネット上で行われたらしい。おそらくネトウヨに近い人による匿名の批判だろう。一私企業である書店が、なぜそのような批判にさらされなければならないかが、私には理解できない。某高校への批判は保護者以外の人からだと書いてある(11月7日朝日新聞)。保護者ではない人たちが、学校内で行われていることをどのようにして知ったのかは分からない。名乗ったかどうかも定かでない。が、学校内部を監視する人たちがいるとすれば、鬱陶しくもあり不気味でもある。

 ジュンク堂書店は、一部の本の差し替えをした上で(私にはあまり意味のある差し替えにも見えなかった)、その後フェアを再開したそうだが、批判を受けた学校は生徒に謝罪した上で、保護者にまで謝罪文を配り、社会科学部の文化祭発表も取りやめさせたそうである。この過敏で卑屈で過剰な反応も、いかにも今時の学校であり、情けない。内容に多少の問題があったとしても(新聞に載った「例」を見ると、多少は問題あるね)、それが社会問題化することで萎縮し、政治に対して弱腰になることのマイナスに比べれば、たいしたことではない。いや、いっそのこと、それらの批判の内容やあり方、それらに対する学校の対応まで含めてオープンにし、教材化してしまった方が、ものを考える材料としてはよほど面白く、学習効果も高まるだろう。教育者たる者、それくらいの根性が欲しい。

 そう言えば、先月には、「安全保障関連法に反対する学者の会」が「SEALDs」と共催で計画したシンポジウムに、立教大学が会場使用許可を出さなかった、という出来事があった。理由は「純粋な学術内容ではない」とのことであり、「主催団体の活動から見て政治的意味も持ちうる」とのことであった。ははあ、学術というのは「机上の空論」でなければならないということだな、と私は思った。文系学部の取り扱いを巡るドタバタなど、「(すぐにはor直接的には)役に立たない」学問が、その存在を否定されかねない状況がある一方で、学術がその成果に基づいて現実に立ち向かおうと思えば迷惑がられる、というのでは、学術はいったいどうすればいいのか?

 1940年前後の中国共産党の歴史を勉強していると、熾烈な権力闘争を目の当たりにすることになるが、その際、レッテル貼りというのが盛んに行われる。一番よく目にするレッテルの一つに「托派(托洛茨基派=トロツキー派)」というのがある。「あいつは托派だ!」として批判するのは、言っている人が有力者である場合、強烈な力を持つようだが、さて、言っている人も聞いている人も、トロツキーがどのような人物で、どのようなことを考え、それが批判に値する問題を含むのか、ということを真面目に考えていた風はない。その点に関する説明が一切なくても、「托派だ」という批判が力を持つというのは恐ろしいことである。使う側、受け止める側双方の問題として、私は最近の「偏っている」「政治的だ」に、それと同様のものを感じる。

 世の中はどこかの方向へ向けては絶えず動いている。方向性を持って動いている以上は、絶えず偏っているのである。それがいい方向へ向かっているのであれば、何ら問題にはならない。だが、それが本当に最善の方法なのかは、常に疑っていなければならない。そうでなければ、もっと良い方法があるのをみすみす見逃すことになってしまったり、最善と誤解しつつ最悪の方向へ向かってしまったりするからだ。だとすれば、現在の流れに合うか合わないかに関係なく、「偏っている」と批判することは、それ自体が危険である。暴走を加速させるか、小さくも良心的な異論を封殺するか、どちらかになってしまうからだ。月並みな意見だが、大切なのは、多様な意見を認め、その表現を許容し、現状を疑い、絶えず最善を探し求めていこうとする姿勢である。それを邪魔する「偏っている」は、もはや言論テロである。