教員の政治意識

 今日は強風の影響で、授業が2校時で打ち切りとなった。JRから、あと1時間くらいで列車を止める、という連絡が入ったらしい。全校生徒の半分くらいは電車で通っているので、これは由々しき事態。授業打ち切りも仕方がない。
 しかしながら、今日、実は6校時に研究授業というのが組まれていた。6つの研究授業を予定していたのだが、中でも国語科は県の指導主事を招いての大がかりなもので、科内ローテーションから、今年は普通科2学年が担当することになっていた。普通科2学年には3人の国語科教諭がいる。なんとびっくり!新参者だというだけではなく、55歳の私が最年少。そこで(かどうかは実は不明だが)、私が授業をすることになった。生徒がいなければ授業が出来ないので、これも自動的に中止。面倒なことから解放されたような、呑みに行く口実を失って寂しいような、生活改善運動中なので助かったような・・・なんとも複雑な気分である。
 私も電車が止まると非常に困るので、午後は年休を取って帰って来た。12時過ぎ、仙石東北ラインの下りは7分遅れくらいで動いていたが、東北本線の上り列車は1時間40分の遅れが出ていた。確かに風は強いが、電車という重量級の動力装置が影響を受けるほどとはとても思えない。万が一何かがおこると世間(マスコミ?)がうるさいので、JRの運行基準も大変厳しいものになっている。人々が自分で自分の首を絞める形だ。温和な日本人は「どうしてこの程度の風で電車を止めるんだ!?」と駅員にくってかかったりしない。JRはその辺の事情もよくわきまえている。

 先日、選挙に触れた時、書き忘れていたことをちょっと書き留めておこう。
 「主権者教育」という言葉が流行語大賞獲得か?と思われたのは、18歳選挙権が実施された昨年の話。それでも、高校の職員室でそんなことが熱く語られるということはなかった。今回の選挙でも、選挙の話、政治の話は皆無である。もっとも、最近は、教員の世界でも長距離通勤の増加、それによる呑み会の不成立、組合の組織率低下、個人情報保護への過剰反応などなどの事情で人間関係が希薄になり、仕事の上でどうしても必要な話しかしないという傾向があるから、政治が話題にならないのはさほど不自然ではないのかも知れない。
 しかし、政治の話を殊更に避けている傾向というのは、やはりあるような気がする。県からさりげなく威圧的な通知が来たりはしていない。少なくとも現在勤務する塩釜高校では、校長や教頭が変なプレッシャーをかけているということもない。あえて言えば、メディアによる情報に基づいて忖度しながら、教員が自主規制をしている、平和ぼけの結果として、自らの政治活動にも、生徒にその必要性を伝えるにしても、切実な問題意識を持てなくなっている、だから少しでも面倒なことは避ける、といったあたりが理由であろう。より重要なのは後者かな。要は、みんな政治に無関心なのだ。
 かく言う私も、ごく限られた同僚としか、政治の話はしない。具体的に誰が圧力をかけているわけでもないのは確かながら、どうしても、それを話題に出来ない雰囲気が職員室に充満しているのである。他の多くの同僚がそれを拒む雰囲気を持っているから政治の話が出来ない、というのは、事実であっても言い訳に過ぎないであろう。
 今月13日に、憲法第9条やデモについて詠んだ俳句を「公民館だより」に掲載拒否されたことについての、埼玉地裁判決が出た。掲載を拒否した市側の敗訴である。妥当な判決だと思う。
 それについて、翌14日の朝日新聞は恐ろしいことを伝えていた。不掲載の判断をした公民館職員が元教員だったことから、判決は「教育現場で憲法に対する意見の対立を目の当たりにして辟易し、一種の『憲法アレルギー』のような状態に陥っていたのではないかと推認される。」と述べた、ということだ。
 明らかに、世の中の様々な人の中で、教員は特に政治的問題に及び腰だと裁判官が指摘していることになる。「憲法アレルギー」と裁判官は言うが、俳句の内容との関係でそう言ったまでであって、実はもっと広く政治アレルギーである。さて、教育現場で目の当たりにした「憲法に対する意見の対立」とは何だろう?元教員で公民館職員というのは、定年退職後に嘱託のような形で勤務している人だろうから、年齢は60過ぎである。私よりも5〜10歳くらい上だ。なるほど、日の丸・君が代問題が熱かった時代に教員生活を送っている。問題となったのは思想信条の自由だ。
 それだけではないだろうが、その年代であれば、確かに、政治との関係ではさんざん嫌な思いをし、挫折感を味わってきているだろうな、と納得する。かつて政治的問題が職員会議で熾烈に議論されたことさえ知らない私よりも若い世代の人たちに、政治アレルギー、憲法アレルギーは存在するまい。だとすればやはり、彼らがそれを話題にしないのは、アレルギーの結果ではなく、平和ぼけの結果だ、ということになる。
 これは、実際に政治や選挙を語るか語らないかに関係なく、間違いなく生徒に伝わる。そして、触れることが不利益をもたらす、もしくはただただ面倒だとして、政治から目を背けようとする「主権者」が生み出される。人間界でも自然界でも、ひとたび動き始めたことは、好循環か悪循環のどちらかに進んでいく。教員の世界で政治を避ける風潮は、やがて社会全体を構造的に政治から遠ざけていくに違いない。それで喜ぶのは・・・腹黒い政治家である。