今年も鮭の季節

 昨日の午後は、娘と一緒に、鴇波洗堰(ときなみあらいぜき)に鮭の遡上を見に行った(→初めての時のこと)。私としては、家族で見に行くにあたり、一昨年があまりにも不発で不興を買ったので(→一昨年の様子。なお昨年は、私が忙しくて、鮭を見に行く暇もなかった。)、今年は鮭が上っているかどうか、下見のつもりであった。今年、北海道では鮭が不漁で、イクラの値段の高騰が尋常でない、イクラの盗難すら発生しているというような報道を目にする機会も多かったので、なおのこと身近な場所の鮭の状態が気になったのだ。
 日頃、資源と環境の問題から車の使用を自ら厳しく制限している私が、2ヶ月ぶりにガソリンスタンドに行き、たかだか遡上する鮭の見物の、しかも下見のために、往復50㎞近くも車を走らせるのは、内部規則違反に近いのだが、子どもに「命」の輝きというか、存在感というものを見せ、教育するのにどうしても必要だと感じているからである。それほど、遡上する鮭の群れは感動的だ。
 一人で行くのはさすがに寂しい。娘が暇そうにしているので、声をかけたところ、行きたくないと言う。面倒くさいのだそうだ。一昨年、雨の中をわざわざ行ったのに、ほとんど何も見られなかった悪印象も影響しているようだ。私は、強引に連れ出した。
 車で30分。着くと、二人の漁師が鮭を捕っていた。なぜかこの日も水量が非常に多くて、一見したところ鮭の姿は見えない。しかし、漁師が大きなたも網を流れに入れると、特に魚を探すわけでもなく、そのまますーっと上げるだけで、常に3〜4匹の大きなブナ鮭(産卵色の鮭)が入っていて元気に跳ね回る。どうやら激しく泡だって中の見えない流れの中には、3年前と同じく、鮭が正にうようよと泳いでいるらしい。よく見れば、水面には時折鮭の背びれが見える。
 娘は大興奮だ。漁師さんのそばに寄って鮭をのぞき込んだり、それを生け簀に入れるところを見に行ったり、堰を左右に行ったり来たりしながら歓声を上げている。家を出る時は、父親に強く言われて仕方なく、本当に渋々付き合うといった感じだったのに、しょせん下見だからもういいや、と私が帰ろうとしても、なかなか堰を離れようとしない。結局、1時間近く見ていた。
 漁師さんは、鮭を捕ると選り分け、成熟した雌は生け簀に入れ、それ以外の一部はそのまま取っておき、一部は頭を木の棒でコンと叩いて、流れに戻している。孵化場では、卵や精子を取る前に、もっと勢いよく棒で叩いて殺していたのに、叩き方が中途半端な上、瀕死と見える状態でそのまま川に戻しているのが不思議だった。
 聞けば、軽く叩いてから戻すと、川を遡って行かず、下流へと向かい、しばらくしてからまた戻ってくる、それが成熟のための時間としていいのだそうだ(そんなことが、どうして分かったのだろう?)。殺した方の鮭は、石巻の魚市場から毎日人が来て、引き取っていくらしい。ブナ鮭というのは、身に独特のにおいがあって商品価値が非常に低い。人間が食べるとしたらせいぜいふりかけや鮭フレーク、そうでなければ魚粉にして飼料にまぜるくらいしか使い道がない。だから、卵を採った後の鮭なんて、1匹数十円止まり、という話を聞いたことがある。そんな鮭を引き取りに、なぜ石巻くんだりからわざわざやって来るのかは不思議である。孵化場から、卵や精子を取った後の鮭と一緒に運んで行けばいいのに・・・。
 雌に比べると、雄の需要は低い。1匹の雄の精子で、何匹分かの雌の卵に受精させることが可能だからだ。しかし、市場に出す鮭には、雄だけではなく、雌も混じっている。もちろん、それは卵を採って商品(イクラ)化するのだろうが、孵化場に持っていく鮭と市場に出す鮭をどう分けているのかはよく分からなかった。
 今年遡上してきた鮭は、震災の2年後に放流したものが中心だ。今年これだけの鮭が上がっているということは、その頃になると、以前と同様の数が放流できていたということなのかな?鮭の遡上は、今から1ヶ月あまり続く。漁師さんは、ピークがいつ頃になるのかは読めない、と言っていたけれども、2週間ぐらいしてから、今度は家族で行くことにしよう。