主任は上司、ですか?

 間抜けな感じだが、今日も一昨日の話である。我が家にいたのは私と子供二人だけ。妻はと言えば、同僚の結婚式があるとか言って仙台に泊まりであった。その妻が、昨日帰って来て、結婚式の座席表を取り出し、「見て、見て」と言う。見れば、妻の肩書きとして「職場上司」と書いてある。
 妻は、某学校で「なんとか主任」という肩書きを持ってはいるのだが、あくまでも平教員である。結婚した某教諭は、その部署の一員だ。だが、主任を「上司」とするのは、単純に驚きに値するだけではなく、実は非常にまずい。もちろん、妻とて、「上司」と書かれて喜んでいるのではなく、その感覚に驚き、当惑しているのである。
 学校で「主任」が制度化されたのは、今を遡ること約40年、私が教員になるより10年以上も前の1977年か8年のことである。それ以前から「主任」という言葉はあったのかも知れないが、この時から、主任というポストが制度化され、主任手当というものが支給されるようになった(現在、実働1日あたり200円=笑!!)。1975年に当時の文部省が人事院に対して、教員の給与改善についての要望書を提出し、その中で主任にしかるべき給与上の措置を講ずるよう求めて以来、学校では、激しい反対運動が起こった。というのも、これは「主任さんは他の教員よりも忙しいから、多少の手当を出させて下さい」などというものではなく、職場内に縦の序列を作り上げる動きとして理解されたからである。
 おそらく、民間の職場にいる人には理解しがたいことであろうが、これは本質的に重要な問題である。学校は平等を本質とする。なぜなら、民主主義社会において、力は常に下から上へと働かねばならず、上から下へという力を当然のものとすれば、民主主義を殺すことになってしまうからだ。教員の世界にトップダウンが浸透してしまえば、下から上を問い直すことを生徒に教えられるわけがない。よく言うことだが、戦後教育は、戦争中に学校が政府や軍の宣伝塔になってしまったことに対する反省を出発点とする。戦前の政府と違って、戦後の政府は民主的に作られたもの、すなわち、民意によって選ばれたものだから、その意向を学校が反映するのはかまわない、というのは正しくない。なぜなら、権力が絶えずその是非を問い直されていてこそ民主主義は健全であり続けるのであり、民意によって作られたからといって、その権力の意思に服してしまうことは、少数意見を圧殺することに力を貸し、民主主義を衰退させることになるからだ。
 もちろん、このような発想は権力者達にとって不都合だ。だから、なんとかして縦の序列を作ろうとするのであり、そのための主任制度化であるわけだ。そこで職員が反発するのは当然なのである。当時は、教職員組合がまだ力を持っていた。だから、繰り返し長時間の交渉を行うことで、最終的に、「主任は学校の役割分担の一つに過ぎない。したがって、身分ではなく、他の教職員に対して職務命令も出せない」「主任は固定化されるものではない」「主任は履歴事項にはならない」といったいくつかの点を当局と確認し、支給された主任手当を自主的に拠出し、ボランティア的な教育活動等に使うことによって、実質的に主任手当を受け取らず、主任制度を形骸化させようとしてきたのである。
 ところが、若い教員はそんなことは知らない。しかも、国や県は、その後も執拗に学校を支配しようという姿勢をとり続けてきた。大きな、そして決定的な転機は、私がよく言うとおり、日の丸君が代の強制である。そして初任者研修があり教科書問題がある。当局は、「公務員としての服務(今はやりの言葉で言えばコンプライアンス)」を盾に、教員が法令を守ることを執拗に「指導」してくる。それは一見正しいが、残念ながらその法令は、民主主義の精神に反するものを相当数含んでいる。守らなくてもいいとは言えないが、「柔軟な運用」が必要な場合も多々ある。しかし、更には、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」などということがやかましく言われるようになり、そういった「教育・指導」の成果として、やがて若い教員は、上位者の言うことを聞くのが当たり前、その内容の是非を考える気などさらさらない、というようになってしまったのである。
 このことが、主任を「上司」と考える発想に結び付くのだ。約40年前に、大変な思いをして勝ち取った合意は、消滅こそしていないまでも、相当程度空洞化してしまっている。それは当局や管理職の圧力によるだけでなく、身の回りの「当たり前」を疑おうとせず、歴史を学ぼうともしない平教員の側の怠慢にもよって、である。


(参考)『宮城高教組三十五年史』(労働旬報社、1990年)