コロナウィルス問題その後(1)

 この半月ほどだろうか?新聞に載る専門家の意見というのが、現在の感染症対策に対する批判の傾向を強めているような気がする。とりあえず手元に残してあるのは、先週土曜日の朝日に載った国立病院機構仙台医療センター・ウィルスセンター長・西村秀一氏によるものと、水曜日の毎日に載った川崎市健康安全研究所長・岡部信彦氏によるものだ。どちらもインタビュー記事である。先月末に河北に載った私の文章と重なり合う。特に後者は、妻が一読して「これあなたの作文(→こちら)と同じじゃない」と言っていたくらい重なり合う。私は妻に、「真面目に考えればそうなって当然なのだ(=こうならないのは真面目に考えていないからだ)」と言った。
 見出しは「専門家は確率を語れ」「リスク評価不十分 実態と合わぬ対策 過剰な恐怖広げた」「政治と距離保ち 異なる見解交え バランス取って」(以上西村)、「新しい生活様式は現時点の例示」(岡部)。一部を抜き出してみよう。まずは西村氏の言葉。
 「実態と合わない対応が続いていることを危惧しています。亡くなった方を遺族にも会わせずに火葬したり、学校で毎日机やボールを消毒したり、おかしなことだらけです。」
 「ゼロリスクを求めれば、『念のため』と対策もどんどん大きくなる。しかし、その下で数多くの弊害が出ています。人と人との関わりが無くなったり、差別してしまったり。職を失い、ウィルスではなく、その対策で命を落とす社会的弱者もいる。」
 「感染リスクは環境や条件によって異なります。一律の対策はあり得ません。」
 「一つ一つのリスクを評価する際、異なる科学的見解も踏まえて検討する。これもバランスの取り方です。危機と感じる人が多い時こそ『一色』にならないようにしなければ。」
 次に岡部氏。
 「例えば、学校などでは保護者も先生も、心配や不安が重なり、新型コロナ対策としてできることは『何でも』と考えてどんどんやることを増やしてしまっています。極端な場合には、学校で感染者が一人でも出たら、全校閉鎖、地域も学校も閉鎖、といった考えが出てくることもあります。」
 「この病気を知り、ある程度は許容し、その存在を受け入れないと、学校生活などは成り立たなくなります。」
 「『新しい生活様式』については、一つの例として挙げたのですが、『そうすべきもの』という誤解も生じてしまっています。またこのような生活が、これから5年、10年、あるいは未来永劫続くと思ってしまっている人もいるようです。(中略)新しい生活様式は最終結論ではなく、現時点での例示なのです。」
 以前から言っているとおり、今の世の中で行われていることを見ていると何もかも目茶苦茶なのだから、感染症対策だけがまともに行われるわけはないと思っていたが、この2~3ヶ月、学校内で起こっていること、決められていることを見ていると、まさに心配していた通りのことが心配していた通りに起こっている、という気がする。
 今月の初め、私が勤務する学校で感染症対策の「基本指針」を策定するということで、会議に先立って1週間の期間を設定し、校長が校内に意見を募った(パブリックコメント方式)。私は上の2先生とほとんど同じことを考えていたので、わざわざレポートを書いて提出した。会議の時には、教頭が「ご意見を募りましたが、お一人からしか意見が寄せられなかったので、お認めいただけるものと思います」と述べ、そのまま可決の格好となった。「お一人からの意見」がどのようなものであるか、紹介さえされなかった。
 私の考えとあまりにも大きく違う方向に全体が動いていることが感じられて、その場で意見を言う気力は残っていなかった。少数の意見の中にも大切なことがあるのではないか?と考え、それに耳を傾けながら最善の決定をするという民主主義の基本が、高校教員(一応知識人の端くれ)の世界でもほとんど失われ、民主主義=多数決と考えて疑わないことにも恐ろしさを感じた。