オンラインの大学生

 東京の某大学で、学生が大学に対して訴えを起こした。いかに感染症対応とは言え、全ての授業がオンラインで、大学の施設も使えないとなれば、本来の授業料は不当だというのが訴えの内容らしい。
 そうしたくなる気持ちはとてもよく分かる。おそらく、他の大学生の中にも、共感している人、追随しようという人がたくさんいるのではないか?
 高校と比べて、大学の感染症対策は非常に厳しい。私が時々調べ事で足を運ぶ東北大学だって、授業がどうなっているかはよく分からないが、図書館の利用制限は「学問の息の根を止める」と言いたくなるほどだ。授業のオンライン化は、高校に比べてお金がたくさんあるのと、学生側でも通信環境が確保されているからかな、と思うが、或いは、大学の方が先生の年齢層が高くて、先生が感染した時に重症化のリスクが高いからではないか?という気もする。
 高校は、体育館に収容制限が設定されていて、全校集会が開けないというような問題はあるものの、マスク着用以外にはさしたる制限もなく、かなり「普通」の生活ができている。しかし、校外における教員の会議には、中止やオンラインというものが少なくない。
 私は、オンラインの会議はできるだけ避けている。やってみると、私たちが会議に何を求めているか、会議の意味とは何かということが分かる。
 先週の日曜日、組合の定期大会があった。会場参加とオンライン参加の2種類が設定されていて、事前に届け出ることになっていた。私はもちろん会場参加だ。
 会場に入ると、旧知の人々と挨拶をし、近況を述べ合う。休憩時間も昼休みも同様である。教職員組合の極端なまでの斜陽化で、議論の争点とてなく、ただの情報交換のようなダラダラとした会議が1日続いた。終わって帰宅の途中、ふと思い出してみると、印象深かった、もしくは意味があったと感じられたのは休憩時間のいわば「雑談」だ。オンラインにはこれがない。
 会議は往々にして公式見解のやり取りとなる。タテマエの世界だ。それに対して、休憩中の雑談は、ホンネの世界である。だからこそ、情報交換にも、ちょっとした議論にも意味を感じるのだ。その部分がなければ、世の中は無味乾燥で堅苦しい場所になってしまう。
 おそらく、学問でも同じだろう。学問の深まりというのは、講義や発表よりも、その場を離れた後で、その内容について脈絡もなく感想を述べ合うような中で実現するように思う。オンラインばかりの授業、同級生と接することも、ましてぐだぐだと意味のあるようなないような会話を続けることも「禁止」されているに近い状態で、果たして自分が大学に在籍している意味とは何なのか?疑問を抱くのは当然だ。
 高校では、1教室に40人前後という「密」状態で、学校生活が行われている。生徒には、すこしでも「密」にならないようになどという意識はなく、ベタベタとくっつき合いながら楽しそうに毎日を過ごしている。注意なんか通用しない。私の勤務先は、1100人という、宮城県の公立高校で最大の学校なのであるが、それでも今までの間にクラスターは発生していないし、感染者も2人(無症状)に過ぎない。もちろん、それは偶然(運)の要素も大きいのであって、その一事によって感染リスクを評価することはできない。
 だが、それにしても、高校や大学での生活は、学生にとってかけがえのない3年間であり4年間だ。制限は少ないに越した事がない。予防はとかく過剰になる傾向が強い。大学生の訴えが裁判所でどのような評価を受けるのかは知らないが、予防を問い直すきっかけとしての意味は大きいだろう。