文系と理系


 先週の水曜日、関西を代表する超有名大学の先生方が4人、遠路はるばる我が宮水にやって来た。ま、「出前授業」のようなものをしに来てくれたのだが、宮水がお願いしたというよりは、彼らの問題意識に従って授業を行う場を、ちょっとした人間関係から宮水が提供した、と言うのが正しい。もちろん、経費は全て大学持ちである。

 彼らの抱えてきたテーマとは、「実践を通じた文理融合授業の開拓」というもので、そのため、普通に考えて理系と思われる先生3人(うち1人は大学院生)と、文系と思われる先生が1名お出ましになった。趣意書のようなものを読んでいて、私には、彼らが何をしたいのか、彼らのやろうとしていることにどのような意味があるのか、とんと理解できなかったのだが、授業を見学しても、その感は変わらなかった。だが、なにしろ私が卒業した大学よりかなり偏差値の高い大学の先生方なので、とりあえずは、自分がバカだから分からないのだろう、と思うことにした。

 また、先週の日曜日、『朝日新聞』の「日曜に想う」というコーナーで、特別編集委員・山中季広氏による「文系か理系か、はたまた二刀流か」という文章を読み、これまた、何ともスッキリしない感じが尾を引いていた。

 その後つらつらと考えていて、これら二つの事例で、私がなんだかもやもやした感じになったのは、彼らが、理系・文系とは何か、ということを明確にしていないことと、文系・理系が固定された何かの物であるかのような扱いをしていることに原因があるのではないか、と思うようになった。

 以前も少し書いたことはあるのだが、現在、日本では「文系」「理系」という言葉が、二つの意味を持って使われている。一つは、社会的存在としての人間を探求するのが「文系」、自然を探求するのが「理系」という分類である。これは、私自身がそのように定義するのだが、Wikipediaなぞを見てみると、正にこの通りの説明が為されている。一方、『広辞苑』を始めとする紙の辞書は、残念ながら説明になっていないので、定説として確立されているわけではないのかも知れない。もう一つは、高等学校のクラス分けや大学受験において、数学Ⅲを必要としないのが「文系」、必要とするのが「理系」という分類である。これら二つの観点の結果として、伝統的な学部の枠で言えば、法・経・文・教は一般に「文系」、医・歯・薬・理・工・農は一般に「理系」とされるが、大学・学科や、同じ大学でも試験方式によって、工学部でも数学?が必要ない、などということは今やよくある話なので、そうなると、高校の文系クラスからでも受験が可能となり、そんなものの見方ばかりしている人にとっては、「文系工学部」などという発想も生まれてくる。

 『朝日』で問題とされていた、「つぶしが利くかどうか」とか、「就職に有利なのはどちらか」という観点で言えば、「理系」の方が有利なのは当然である。数学を始めとして、自然という相手を解明するためには、それなりの特殊なツールとスキルが必要なのに対して、「文系」には「理系」に対して優位に立つようなツールがない。学問をする人を含めて、主体は全て人間なので、誰でも人間に対する考察からは逃れられないし、可能であるが、自然世界は通り一遍の「常識」を別にすれば、ツールとスキルを身に付けて、わざわざ近付いていかなければ、その世界を覗くことができない。また、人間という存在は、個別的で、一般化・法則化するのが大変難しく、過去の出来事についての調査・分析はできても、それに基づいて現実に力のあることをしようと思うと、法の整備が関の山かな、という気がする。医学部出身の作家はたくさんいるが、文学部出身の医者は、制度上の問題(医学部を出なければ医師の国家試験が受けられない)を別にしたとしても現れようがない。いかに大切な「知」であれ、現実との関係で言えば、「文系」は確かに専門性が低く、無力感が強いのである。

 それはともかく、必要に応じて、新しい知の獲得を目指したとして、それが大きく分けて自然に関することなのか、人間に関することなのかは、「明らかにしたい」という衝動に比べれば、後付けで構わないものである。いや、そもそもそんな分類が必要であるかどうかも怪しい。必要だとすれば、処世術的な意味(上で示した二つ目の観点=数学?の必要性の有無をベースとする)においてだけではなかろうか。だから、始めから「文系」「理系」という固定された枠があって、それに合わせて何かを考えるのは本末転倒、倒錯であろう。だから、「就職に有利か不利か」なら、処世術的なレベルでの悩みなので、論ずることも理解の範囲であるが、大学の研究者が、「文理融合授業を」目指すというのは、甚だ滑稽である。必要だと思ったことを学び、必要だと思ったことを教えればいいのであって、それが「文系(人間)」か「理系(自然)」か、或いはその両方が混じっているのか、わざわざ判断しなければならない場面は少ないだろう。

 おそらく、「文理融合授業」の探求は、何かのテーマに困った中で、苦し紛れに考え出されたものであろうと推察する。ただ、そのような試みが審査を通過し、それなりの研究費が与えられるというのは、そんなテーマが考え出される以上に困ったことだ。これでは(一流)大学も馬鹿にされるよ。