文系的学問の有用性について(1)

 吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)を読んだ。タイトルを見ると、文科省が大学の文系学部を廃止しようとしているのに対する批判の書であると想像される。決して間違いではない。しかし、文系学部の価値論だけは一書にならないという事情があったのかもしれないが、単なる文系学部廃止論批判であることを超えて、たいへん立派な学問論、大学論であると思った。
 著者は、まず文科省が文系学部の廃止を目論んでいるということについて、それが文科省の意思であると言うよりは、安倍政権に対するバッシング的要素を含むマスコミの過剰反応であるとする。しかし、実際問題として、文系学部が「役に立たない」学問をする場所として、時代が下がるに従って弱い立場に追いやられていることを認めた上で、その原因を分析し、文系の学問の価値について考察する。
 それによれば、理系の学問が、既に確立された目的や価値の達成のために有効な知であるのに対して、文系の学問は、皆が自明であると思っているものを疑い、批判し、新しい価値を見つけ出していく知である。前者が、短期的に有用性を実感できるのに対して、後者は長期的な視野を必要とする。だからこそ、文系の学問は一見役に立たないのであるが、永久に不変の目的や価値が存在しない以上、新たにそれらを見つけ出していくことはどうしても必要である。従って、文系は長期的に「役に立つ」知である、ということになる。
 だが、果たして、現在文系の学問に取り組んでいる人たち(先生も学生も)が、そのような文系的知の性質を意識し、自分たちの歴史的役割を自覚しながら学問をしているかと言えば、決してそうではないだろう。むしろ、役立たずとのラベルを剥がすために、著者が言うような文系的知の性質を意識することなく、短期的有用性を見つけ出そうと努力している人も多いのではないか?まして、研究者への道を進むことのない圧倒的多数の文系学生は、大学を卒業した後に、その学問的特性を役立てて行こうなどという意識は持たないのではないか?また、一方で、新たな目的や価値の発見と創造の必要性は、理系の人間も必要と感じるものである。どの学部出身者であるかに関係なく小説家が生まれるように、新たな目的や価値の創造は出身学部、研究歴に関係なく必要、かつ可能なものなのではないか?つまり、文系の学問を深く学んだ経験がなければ出来ないことではない、と考えられる。そう思う時、著者が言うような文系の価値は本当にあるのか?
 著者にもそのことは薄々分かっていると思われる。だから、終章において著者が「遊び」というものを持ち出すのは、そのことによるのではあるまいか?つまり、著者がホイジンガを援用して「文化は遊びを通してこそ生成する」と言い、「遊ぶからこそ役に立つ、つまり遊戯性から新しい価値や目的が生まれ、有用性も成り立ってくる回路が確実にあります」と言う時、文系の学問はしょせん遊びであるが、それゆえに価値を持つ、という一種の開き直りの様相を帯びる。残念ながら、著者は「遊び」とは何かを明確にしていない。だからなおのこと、「遊び」は文系の知を価値付けるための超論理的な魔法のように見え、著者の苦衷を感じてしまうのだ。
 論理というのは、往々にして、感情的に決まっている結論を、感情的ではないと見せかけるために組み立てられる場合が多い。「感情的に」という言葉が悪ければ、「直感的良識によって」と言い換えてもいい。終章があることによって、私は著者の文系的知に対する考え方に、それと同様のものを感じてしまう、ということだ。
 著者の専門は社会学、都市論、メディア論である。文系の人間だ。私も文系(中国哲学・史学)である。自分自身の価値を否定しないためには、文系学部の有用性を否定するわけにはいかない、廃止が仮に文科省の本意であったとして、それに真っ向から立ち向かう必要がある、というのは感情的過ぎる。では、私はどのように考えているのか?(続く)