マルチスピーシーズ民族誌と鳥インフルエンザ

 ある人から薦められて、近藤祉秋・吉田真理子『食う、食われる、食いあう』(青土社、2021年)という本を読んだ。「マルチスピーシーズ民族誌の思考」という副題が付いている。
 「マルチスピーシーズ」とは、「マルチ(多)+スピーシーズ(種)」だから、今をときめく「生物多様性」に関わる学問なのであろうと想像できるが、後に「民族誌」と付くとおり、あくまでも人間と生き物との関係を考察する態度のことである。著者の説明によれば、「マルチスピーシーズ民族誌は、人間と他種(さらには生物種にとどまらず、ウイルス、機械、モノ、精霊、地形も含む)の絡まりあいから人間とは何かを再考する分析枠組みである」。ただし、「人間とは何かを再考する」とは言っても、単に「人間とは何か」を考えるというよりは、人間と他種が「ともに生きる」ことを重視しながら、その生き方を考察しているという感じだ。現在、マルチスピーシーズ民族誌は「科学技術の人類学、フェミニスト科学技術論、政治生態学、民族霊長類学、アニミズム論、先住民研究などの諸分野を専門とする研究者によって採用されて」いる、と著者が言うことからすれば、独立した学問分野というよりは、研究対象へのアプローチの方法論のひとつ、と考えた方がいいかも知れない。
 実際、読んでみて、さほど特別な感じはしなかった。紹介されている様々な事例は、生態学なり、水産学なり、民俗学、人類学なりといった従来の枠組みでできることばかりだ。新しい言葉を使うことに避けがたい必然性があるのかどうか、新しい言葉を使わなければ表現できない何かがあるのかどうか・・・私にはまだ判然としない。大学が学部を新設する時には、他との差別化を図り、人の耳目を引きつけるために、学習内容が従来の学問的枠組みで十分に対応可能な場合であっても、新奇な名前を付けるということが行われがちである。それと同様のことは、学問の世界でも起こり得る、もしくは既に起こっていると思うからだ。
 ところで、第1章「牡蠣がつくり育てられているとき」(吉田真理子筆)に、マルチスピーシーズ民族誌との関係ではなく、気になった一節がある。それは、タスマニアの牡蠣養殖場にOsHV1-μVarという毒性の極めて高いウイルスが出現したという話についてである。感染した時の致死率は、最大95%に及ぶというからすさまじい。
 当然のこと、生産者は原因解明と対策に取り組む。その中に「自然環境下で生き残った牡蠣は、OsHV1-μVarに対する耐性をもつ選抜育種として移植され、繁殖用種苗に用いられる」というものがある。私はこれを目にした時、「やっぱりそうだよなぁ」と思わず口にした。それは、先日鳥インフルエンザについて書いた際(→こちら)、1羽でも鳥インフルエンザに感染した鶏が出たら、その鶏舎の鶏全てを殺処分というようなことをしていたら、鶏が免疫を獲得することができず、永久に同じことを繰り返していかなければならなくなる、というようなことを書いたことと深く関係するからである。
 鳥インフルエンザの致死率はしょせん75%だ。もちろん、これは驚異の高率なのだが、OsHV1-μVarに比べれば低い。生き残る25%の個体がどれかを見極め、その性質をどのようにして保存し、より多くの鶏に受け継がせていくのか。やはり、考えるべきはそこだろう。マルチスピーシーズ民族誌的な立場に立つ研究者は、鳥インフルエンザ対策をどう見るのだろう?そんなことが気になった。