おいおい本気か?

 昨年、母校でもない京都大学について2本の記事を書いた。ひとつはタテカン問題(→こちら)、もうひとつは吉田寮問題(→こちら)だ。共通するのは、京都大学当局の非常に高圧的、一方的な態度についての疑問であり、自由な学風が失われ、学問的な活力が失われることへの危惧である。
 その後も、これらの問題については経過を気にしてきた。今月の2日には、毎日新聞に「京大『タテカン』いたちごっこ」という小さな記事が出て、規制開始から1年目の5月1日、規制を皮肉る内容のタテカン6枚が設置されたことを報じた。写真を見れば、「ようこそ閉じられた大学へ」とか「吉田寮退去通告反対」といった文言が書かれている。6枚とはささやかなものだ。
 記事によれば、昨年5月13日に当局が強制撤去に乗り出してから、「いたちごっこ」が続いていたが、最近はほとんど立てられていなかった、とのことだ。権力の側は仕事、学生の側は自由意志である。学生が根負けしてくるのは当然のことだろう。
 そうしているうちに、5月17日、やはり毎日新聞「論点 令和のはじめに」という3分の2面を使った大きなインタビュー記事に、京都大学総長で日本学術会議議長の山極寿一氏が登場していた。氏は言う。

「(これからの時代は)『個人を取り戻す時代』にしなければならないと考える。」「対話をすれば、状況が刻々と変化する中で、自分の経験値や蓄積している知識をもとに発言することになり、発想力が鍛えられる。」

 おいおい待てよ。言っていることとやっていることが違うではないか、思わずそう突っかかりたくなる。タテカンにしても、吉田寮にしても、対話を拒否しているのはいったい誰なのだ?仮に学内の一部局が勝手にやったことだったとしても、これだけ一般紙誌で報道されていることを、まさか総長が知らないということはあり得ない。それでいて、学生と真摯に向き合い言葉を交わさない人間に、なぜそんなことを語る資格があるのだ?タテカンや吉田寮に直接関わる京大生が、この総長の言葉をどのような気持ちで読むのか、私は知りたいと思う。
 対話というのは、「さあ、今からかくかくしかじかの学問について対話をしますよ」といって始まるものばかりではないだろう。あるいは、そんな試験管の中の会話が面白かろうわけがない。むしろ、ダイナミックに動く現実の中でそれに直面し、解決を求めて火花を散らす会話こそが人間を鍛える。
 安倍政権の学術政策を、ノーベル賞学者はこぞって批判し、私もその貧しさについては何度となく触れているのだけれど、問題は政権だけではないことを感じさせられて恐ろしい。目先の利益のことばかり考えている人々が選んだ政治家と、学問の府内部で選ばれた総長、軍事技術の開発に学問が協力することに反発する組織の議長が、一見まともなことを言うが、やっていることを見ると変だという点で、どうしても似たり寄ったりに見えてくるというのは、いったい何なのか?
 国民による選挙を経るかどうかに関係なく、あらゆる所が、世の中の変化に影響を受け、変質していき、しかもその中にいる人は気が付かない。なんだか、神の手を見る思いだ。