京大のタテカン

 今年に入ってから、京都大学の「タテカン問題」というのを少し気にしていた。 きっかけは2月21日の天声人語なのだが、今月に入って大学が実力行使を始めたものだから、新聞でも大きく取り上げられるようになって、一気にヒートアップした感じがする。
 問題に気付いていない人には分からない話だろうが、「タテカン」というのは立て看板である。京都市の景観保護条例に反するとして、市が大学に対して、キャンパスの周囲に設置されたタテカンを撤去させるよう指導し、それを受けた大学が学内規則を作り、今月に入って強制撤去に乗り出した、というものだ。現場の状況がよく分からないので少しコメントしにくいのだが、強制撤去の対象は「周囲の看板」らしい。しかし、大学は構内のタテカンについても、大学が認めた団体のみ、所定の場所に一定期間だけ設置を認めることを規則に盛り込んだという。(5月23日付け朝日新聞「ニュースQ³」欄に詳細)
 ずいぶん窮屈な話である。いくら学外とは言え、四条河原町や京都駅前のような繁華な場所、あるいは奥ゆかしい古寺の門前に無粋なタテカンを置くならともかく、学校の周囲だけの話であり、タテカンの大きさも新聞の写真を見るに2〜3m四方のものに過ぎない。
 しかも、場所は学問の府、天下の京都大学である。タテカン設置の自由を奪うという管理的なやり方は、間違いなく学問にも悪影響を与えるだろう。唯々諾々と学生がタテカンを撤去するようなことになれば、それこそ問題である。今のところ、強制撤去に走る大学当局と反発する学生とのせめぎ合いが続いているようだが、やがて権力は押し切るだろうし、それは「抵抗することは無駄」という無気力を生む。これは私にとって「日の丸・君が代の教訓」だ。
 「抵抗することが無駄」であれば、「権力のすることを疑うことも無駄」である。疑わない対象は権力から既成の権威、偏見、先入観、学説へと拡大し、そうなると学問はもはや成り立たない。
 「何を大袈裟な!」と言ってはいけない。問題が発生した時に原因を探せない、すなわち、因果関係を明らかに出来ないほど遠くに原因がある、ということは少なくない。私がよく言う「利益は目前に。より大きな不利益が将来に」というやつである(→こちら)。
 私は新聞という古典的なメディアが好きである。何よりも、色々な話題が自然と目に入ってくるというのがよい。それを「一覧性」とか「俯瞰性」と言う。それらの性質において、新聞は他のメディアを凌駕する。タテカンもいくつか並ぶと、同じ性質を持つ。また、新聞には紙の手触り、インクのにおい、字体のバラエティーといった情緒的要素も大きい。これまた同じことがタテカンについて言える。タテカンは壁新聞の一種だから、当たり前と言えば当たり前だ。
 どのような環境から豊かな学問(文化)が生まれるかということを考えた時、タテカンを力尽くで撤去することは明らかにデメリットが大きい。京都市ならともかく、大学当局がそのような価値観に鈍感で、市の指導に素直に従うというのは残念だ。京都大学なんてその程度のものか・・・私ならそう言って舌打ちをしたくなる。