意味不明だけどワクワク!

 今朝の新聞各紙は、京都大学望月新一教授が「ABC予想」の証明に成功したことが確認され、近く発行される論文雑誌にその論文が掲載される旨大きく報道していた。
 望月氏が証明に成功したという話は、私が知っている範囲でも、既に3年ほど前に査読未了であることを断りつつ報道されていて、私もそれに少しだけ触れたことがある(→こちら)。幾つかの新聞を読みながら、氏の偉業についても、氏の履歴についても、すごいなぁ!との思いは強く持ったが、では、果たしてそのすごさがどれだけ分かっているかといえば、全然分かっていないのである。
 そもそも私は、数学の論文というものを全くイメージできないわけだから、分かるとか分からないとか言うことそのものが許されない立場であることは自覚しているのであるが、それでも私なりに、何が分からないかをいくつか指摘してみよう。
 まず、「ABC予想」そのものがよく分からない。新聞によれば、共通の約数を持たない2つの整数とその和を素因数分解した時、それらの素因数の積は、「多くの場合」和よりも大きくなる、というものらしい。
 数学の世界における最大級の難問だというから、どれほど長い年月、数学者たちが苦しんできたのかと思ったら、なんと1985年にヨーロッパの数学者が提示したものだという。なんだ、私が大学を卒業する頃のことだから、学問世界の時間スケールで言えば、「つい最近」ではないか?!解決に350年以上かかった「フェルマーの最終定理」は格別、「ポアンカレ予想」だって100年はかかっているのである。あまり極めつけの難問、といった感じがしない(望月氏が偉大すぎるだけかも)。また、不思議なことに、とりあえず私が目を通した3紙(朝日、毎日、河北)では、それを提示した人の名前が書かれていない。ネットで探すと出てくるが、なぜ新聞は書かないのだろう?
 この予想について特に分からないのは、「多くの場合」という表現だ。およそ数学の世界に似合わない曖昧表現である。私の感覚で言えば、「必ず大きくなる」や、「75%の確率で大きくなる」などでなければならない。いったい、どの程度をもって「多くの場合」と見なすのか?最低限、その確率は明示しなければならないのではないのか?
 望月氏は、この論文を2012年に、まず自身のホームページで公開した。続いて、『PRISM』という国際専門誌に投稿したらしい。分量は600頁!!!
 論文のみならず、一般に投稿する場合は、応募規定に「未発表のものに限る」という条件がついている。自分のHPでの発表はそれに抵触しないのか?また、これまた一般に、投稿論文には字数制限というものもある。どのような書式か知らないが、600頁は異常な分量だ。雑誌に掲載すると言うよりは、それを1冊の本にしても「大著」と呼ばれるスケールである。本にしないのは、本にしても売れないが、論文雑誌なら会員制で、売れる売れないを気にする必要がないからだと理解できる。だが、この論文を理解できる人は世界に十数人しかいないということになると、既にHPで公開しているものをわざわざ活字にする必要なんてあるの?という話になる。これについては、雑誌に投稿することで査読(審査)が入り、それによって論文の正しさを確かめられるというメリットを期待してのことかも知れないが、どっちみち多くの数学者がHP上の論文を読んで検証するわけだから、やはり雑誌の特別号を出してまで活字にする必要があるとは思えない。
 複数の一流数学者が査読に当たったにもかかわらず、7年半を要したというのはまったく理解出来ない話である。文系人間の私の感覚だと、そんなのは読んで分かるように書かれていないということで、ダメ論文の証明みたいな話である。しかも、HPで公開されているわけだから当然だが、査読の最中に査読者以外から論文についての激しい批判が多数出されたらしい。更に、京都大学が広報課を通して論文の「解説」を公表している、とかいう話になると、私にはちんぷんかんぷんだ。
 いくら科学担当の記者でも、この論文が理解できないのは当然で、証明の内容についての解説がないのは分かるのだが、例えば次の記述を見てみよう。
「従来の数学は足し算とかけ算は一体で考えられる。望月教授の理論はそれを引き離して考え、かけ算だけで様々な計算ができるのがポイント。」(朝日)
 例えば、「2×5」は「2+2+2+2+2」のことなので、かけ算を足し算に直すのは可能だが、「2+5+9」をかけ算に直せと言われても無理である。その意味で、朝日の記述はちんぷんかんぷんだ。しかも、「かけ算だけで様々な計算ができる」というからには、私が日頃、引き算で処理しているようなこともかけ算で処理できるということなのかな・・・?あるいは「計算」には加減乗除以外の計算も含まれるのかな・・・?
 というわけで、とにかく何から何まで理解不能なのである。だが、間違いないのは、全然理解できないにもかかわらず、どの新聞記事を読んでも、妙にワクワクしてくるということである。とてつもない発見がなされ、人間がその知的領域を大きく拡大させたことを、私なりになんとなく感じ取ったということなのだろう。凡人はそれでいいことにしよう。