話が一致する哀しさ・続

 3連休の初日である一昨日は、午後から仙台フィルの第299回定期演奏会に行った。かつての常任指揮者・梅田俊明によるラヴェルの「古風なメヌエット」、ショパンのピアノ協奏曲第2番、ブラームス交響曲第3番というプログラム。ショパンの独奏は、この日のお目当てであるダン・タイソン。1980年に、アジア人で初めてショパンコンクールの覇者となった人物で、今年5〜6月に行われる第6回仙台国際音楽コンクールの審査員でもある。いかにも余裕綽々、「自分のショパン」という感じで、気持ちよく聴くことができた。アンコールは、ワルツ第10番。これは、ショパンとしては至って平易な曲で、私が一応楽譜通りにピアノの鍵盤をなぞることが出来る数少ないショパンの曲のひとつだ。だが、平易な曲ほど名人芸は冴え渡り、素人芸との違いが際立つ。ゆったりとしたテンポで、舞曲と言うよりも、典雅なセレナーデに近い名品と聞こえ変わった。ブラームスは熱演だったが、感動するよりは疲れた。演奏の質の問題なのか、私の体調等の問題なのかは知らない。
 終わってから、仙台市内で前任校の卒業生K君と酒を呑んだ。先日のH大学の先生との話(→こちら)の続きみたいな話だが、こちらは偏差値ランキングS、日本の受験ピラミッドの頂点・T大学の卒業である。卒業後、立派なマスコミ関係の会社に就職したが、いろいろと疑問を感じること多かったらしく、退職して、今は東北地方の一山村で地域支援員といった感じの任期付き公務員をしている。いかにT大学卒でも、こういう人しか私の回りには寄って来ない、ということだ。文科省の官僚にでもなって来てくれるといいのに・・・(笑)。
 問題意識は非常に立派である。結論だけ大雑把に言うと、過疎という問題を抱える地域コミュニティで、実際に汗水流しながら発信と社会改革をしたい、ということだ。町役場の近くではなく、本当に山間の小集落に家を借りて地域密着、日々奮闘しているらしい。以前から、学びが主体的で意識の高い生徒ではあったが、今回はひときわ生き生きした明るい表情をしているように見えた。よほど日々が充実しているのだろう。
 とは言え、Kがそんな場所に活路を求めたのは、立派な問題意識を持つというだけではない、別の事情もあるところが困りものだ。つまり、山村に求めるものがあると同時に、T大学の研究室や某会社の状況に対する幻滅と批判とがあって、Kは山村にいるのである。幻滅の中身とは、閉ざされた学問、社会に対する無関心と保身で塗り固められた組織に対する懐疑、といったようなことだ。
 Kによれば、T大学の研究室でも、学生(院生も含む)のほとんどが専門分野、研究テーマについては極めて高い能力を発揮するにもかかわらず、それ以外のことと言えば、なぜかせいぜいサブカルチャーを話題にする程度で、政治や哲学にはまったく無関心、周囲の状況から「忖度」しながら、自分に災いの及ばないような処世術を身に付けようとする。マスコミ関係の某社でも、仕事の性質上、政治・社会に無関心でいられるわけなんかないのに、仕事との関係でしかそれらを見ることの出来ない人が多い。仕事を離れて、社会問題についての議論なんか聞いたことがない・・・。私は「本当かな?眉唾ではなかろうか?」と思いながら聞いている、いや、聞き始めたのだが、会社の中で有利に生きていくことが可能なはずのKが、多くの実利を捨ててまで山村に走るというのは、単なる「いじけ」「ひねくれ」「逃避」というだけでは済まない切羽詰まった問題意識があることを認めざるを得なくなった。そして、高校教員の世界やH大学の話とも重ねながら、日本の世の中はどうなっていくのだろうという今更ながらの不安に陥ったのである。平和ボケを起こし、権力者によって仕組まれ、人々は目前の安逸のために、本来あるべき思考と生活とを失っていく。破綻するまで、その愚かさには気が付けない。もちろん、この不安があればこそ、Kのような存在が大きな希望に見えてくるのだけれど・・・。
 一度、Kが生活する山村に行ってみたくなってきた。