ウグイスの異変、または奥深き大工場

 3月13日、今年は暖冬だったにもかかわらず、我が家でウグイスがまだ鳴かない、ということを書いた。それから10日が経ったが、ウグイスはまだ鳴かない。どんなに冬が寒かった年でも、3月20日までには鳴いた。これはいよいよ異常事態である。原因は、どうしても我が家の回りで行われている、「復興」を大義名分とした経済対策=憎き土木工事以外には考えられない。
 腹を立てているうちに、我が家の庭で、今日、狸を二度見かけた。狸が近くに住んでいるのは知っていたが、庭で目にしたのは1年ぶりくらいだと思う。野生動物がのこのこ人の家の庭に現れるのは、あまりいいことではない。食べ物に困って出て来た可能性があるからだ。もしかすると狸も土木工事で苦しんでいるのかも知れない。ふと哀れと共感とを感じる。
 3連休も終わってしまった。昨日は、また卒業生に誘われて仙台で呑んでいた。場所は仙台だが、呼び掛け人は、なんと!かのH大学の大学院生Sである(=「かの」の意味が分からない人はこちらを参照)。しかし、少なくとも私の目で見る限り、M先生が困り果てていたような低レベルな学生には見えない。いや、当然だろう。そんな学生が私に声を掛けてきたりはしないからね。
 「3連休明け」と言いつつ、今日は朝から学校に行かず、丹野工業という会社に行った。今年、宮水から4人の生徒に内定をくれた会社である。4人も採ってもらいながら、何をしている会社かもよく分かっていないのはまずいぞ、ということで、内定生徒のクラス担任やキャリアアドバイザー(=進路室秘書みたいな存在)と訪ねてみることにしたのである。
 会社の場所は日本製紙石巻工場の中。連絡する時、そのことを思い出して、もしかしたら日本製紙の中を見せてもらえるということかな?と下心が生じてきた。何しろ、石巻一の大工場。一昨年『紙つなげ』という本を読んですっかり感心し(→その時の記事)、更に先月3日にはNHK「探検バクモン 潜入!ミラクル製紙工場」で改めて感心して、一度工場内を見てみたいと思っていたのである。
 約束の9時に北門から入る。
 実は、丹野工業もそうだが、日本製紙の工場内には、いろいろな会社が建っている。丹野工業と同じ建物には日本汽力。他にも松本鉄工所、石巻精機製作所、日本ユニテック、日本製紙石巻テクノ、ニチモクパレットなどなど・・・。聞けば、10以上の会社があるらしい。従業員15〜50人くらいの会社である。それらは、仕事のほとんどを日本製紙から得ている。丹野工業は北海道苫小牧市に本社がある、配管工事の会社だ。
 私は、いくら大きな工場とは言っても、配管に関する仕事が、ひとつの会社を必要とするほどたくさんあるわけがない、と思っていた。ところが、今日、いろいろな説明を聞いた上で、日本製紙の構内を案内してもらい、複雑に張り巡らされたおびただしい配管を目にして、そんな考えは吹っ飛んでしまった。管の総延長は、おそらく日本列島と比べて長いか短いか、というレベルだろう。管もこれだけたくさんあると、後から後から補修が必要になるのも当然だ。例えば、我が家では照明装置(主に蛍光管)の交換は年に1度か2度だが、学校ではちょっしゅうである。もともとの数が違うからだ。日本製紙の配管もそれと同じなのだな。「そんなに仕事あるの?!」どころか、丹野工業だけでは間に合わないために、同じ建物に同居しているのが日本汽力という会社なのだそうだ。上で挙げた他の会社も、なるほど石巻工場内だけで成り立ってしまうわけだ。私が想像していたよりも遥かに、大工場は多くの物を抱え込んでいる。
 構内を回って事務所に戻ると、昨年の卒業生Kに会った。管を作る工場の中に入ると、同じく昨年の卒業生Sが先輩2人に見守られながら溶接の練習をしていた。声がするので事務所の方を見ると、休憩室から3年前の卒業生Oが出て来た。みんな、高校時代よりもずっといい表情をしている。少し薄汚れたつなぎ服も、かえって格好いい。
 残念ながら、紙を実際に作っている機械(抄紙機)は見せてもらえなかったが、それでも工場の中は面白かった。抄紙機の入っている建物には「耳栓着用」という大きな看板が出ていて、中は本当にうるさいということが想像できた。手続きをして建物の中に入るための講習を受けなければ、入れてもらえない、逆に言えば、それをすれば入れてもらえるそうである。楽しみを後に持ち越した感じだ。この次は、手続きをして、紙作りの現場を直接見せてもらおう。
 

(補)石巻工場の一番海寄りの部分にチップヤード(木材チップの置き場)があって、輸入されたチップが大きな山を作っている。チップ一片はほんの数グラムの軽い木片だ。東日本大震災では、もちろん大きな津波に襲われた。ところが、ディーゼル機関車がひっくり返り、工場内がメチャクチャになり、数トンもある製品(巻紙)が倉庫の壁を突き破って流出する中、チップは一切流されなかった。これは本当に不思議なことである。私も、震災の4〜5日後に、チップの山が形を変えることなく残っている様子を見て不思議に思い、その後、関係ありそうな人に会うたびに、その理由を尋ねてきたが、答えてくれる人はいまだにいない。この理由が解明できれば、津波に強い建物の開発とかに極めて有益だと思うが、メディアでもなぜ話題にならないのだろう?「震災七不思議」の筆頭である。