短い介護体験

 ようやく冬休みになった。と書けば、「平居は12月25日から冬休みに入り、のんきに家族で温泉になど行っていたではないか」と疑問を呈されるかも知れない。確かに、ある意味でそれは正しいのだが、ある意味では違うのである。
 元旦に書いたとおり、今年のお正月は老齢の母が我が家に滞在していた。普段は妹が母の自宅で面倒を見ているのだが、それが大変なのと、母の希望もあって、年末年始は私が預かることにしたのである。カートを押しながら、かろうじてトイレまでは歩けるものの、自分でズボンや下着を下ろすことも、お尻を拭くことも出来ない。面倒を見るのが大変だということは分かっていた。しかし、おとなしく寝ているだけの時間も長いし、日頃の不義理に対する多少の罪滅ぼしの意味もあって腹をくくった。
 母を我が家に連れて来たのは12月28日。そして昨日、自宅に戻した。我が家への滞在は5泊6日。ほとんど1週間。妻に母のお尻を拭かせるわけにもいかないので、私が専従となった。昨秋も書いたとおり(→こちら)、日頃は、我が家の食事のほとんどを私が作っている。しかし、今回、通常の食事は私が用意しつつ、「おせち」の全てを妻に委ねた。2時間に1度くらいの排泄の世話を中心に、私の生活は特に意識において完全に母中心となった。しかも、中腰の力仕事が多い。夜も、23時半過ぎに起こしてトイレに行かせると、それだけで零時をまわる。通常私が寝る時間を1時間過ぎている。夜中に呼ばれて起こされることもある。非常に規則正しい生活をしている私は、この日常の生活時間とのずれもストレスになった。といった具合で、私は疲れ切ってしまったのである。昨日午前に、母を自宅に送り届けると、私は妻の実家の新年会に出席し、夜、石巻の自宅に帰り着いて軽い夕食をとると、バタンキューであった。といわけで、この6日間は「休暇」などというものではなく、忍耐の日々だったのである。
 今までも、1ヶ月に1度は母の様子を見に行っていたから、母の状態が分かっていなかったわけではない。しかし、休日に行って、半日ほど様子を見るのと、24時間を共にするのは次元の違う話である。「えっ?!こんなに衰えが激しかったのか・・・」と絶句するほど、母の衰えは激しかった。頭こそまずまずはっきりしているものの、身体的には自分の力で出来ることが何一つない、と言っていいほどだった。支えてやらなければ、立ち上がることも、座ることも出来ない。何かにつかまっていなければ、立っていることもできない。できることと言えば、歯磨き粉を付けた歯ブラシを渡せば自分で磨ける、食事も食べられる状態にして椅子に座らせば、目の前にある箸を持って食べることは出来る(食べる量が多くてびっくり!!)、服のボタンは、上の方、下の方は無理で、胸の前辺りの高さのボタンだけ、震える手で、1個に2分くらいかければ掛けられる。せいぜいそんなところだった。
 我が家に連れてきた直後、すぐに見えた問題は、我が家には手すりがないということである。母の自宅には、既にあちらこちらに手すりが設置してある。私はその効果を軽く見過ぎていた。手すりがないために、なおのこと、母が自力で出来ることが減り、私の負担が増えた。
 最も大変だったのはやはり排泄の世話。パッドを当てて紙パンツを履かせているので、尿や便が外まで漏れてくるということはないのだが、29と30日以外は、トイレに行くたびに少量の便が出ていた。少量とは言っても、出ていれば拭き取らないわけにはいかない。ところが、尻たぶが異様に肥大していて、そこに粘度の高い、それでていてコロコロ便にならない最悪の粘度の便がべっとりと付いている。それを丁寧に拭き取っていくのだが、なにしろ毎回毎回で、時には拭き取りが完了したと思った次の瞬間にまたわずかな便が出て来て、作業が振り出しに戻るということもあった。姿勢と尻たぶの形状から、温水で洗い流すことも出来ない。すると、今度は皮膚が傷んできて、母が痛みを訴えるようになってきた。31日夜からは出血が始まった。拭くたびに激しく痛がるが、どう工夫しても痛みなしに拭くことはできない。なだめすかしながら拭き取った後に、消毒してワセリンを塗る。
 という具合だったのである。とてもいい経験(勉強)をした。介護疲れによる虐待や殺人の話を耳にすることも多く、それはこれまでも想像と理解の範囲だったのだが、今回、わずかに6日間ながら母の面倒を見てみて、それはより一層リアルな問題に見えてきた。また、設備や道具の大切さも実感した。手すりについては既に書いたとおりだが、徹底したエコ生活者であるつもりの私としたことが、紙パッドや紙パンツのお世話にならないわけにはいかなかった。これらがなかった昔の人はいったいどうしていたのだろう?あるいは、これだけよぼよぼになっても生きていられるのは文明のおかげだからであり、文明がなければ、ここまでの状態になる前に死んでいた、ということなのだろうか?
 母の自宅は、我が家から60㎞ほど離れている。さて、今後どうしたものだろう?母の介護問題は、今までよりも飛躍的に大きくなった。そんなことに頭を悩ませつつあるところ。