禁止が許される?許されない?

 学校の近隣住民から、車が出入りする時に自転車に乗った生徒が通るのが危ないという苦情があり、一部区間で自転車の乗車を禁止するという話になりかけた。私だけが、それにかみついた。
 理由は二つ。ひとつは正当な苦情ならそれなりの対応もすべきだが、自転車の通行が法令上禁止されているわけでもない区間で、苦情があったというだけで「禁止」というのは卑屈だということ。そしてもうひとつは、公道においては弱者ほど大切にされるべきであって、車の出入りの際に自転車が危ないというなら、車はもっと気をつけろ、と言うべきだということである。
 人間は強くなると傲慢になる。車を運転する人間には、自転車や歩行者が譲って当然と思っている人が少なくない。私ができるだけ車を運転しないようにしているのは、エネルギー資源や温暖化の問題もあるが、そんな懸念を持ち、自分はできるだけそうなりたくない、と思っているからでもある。学校は弱者優先、状況判断による安全確保ということこそ教えるべきであって、強者に対して頭を下げ、不当な要求にも屈することを教えてはいけない。
 また、「禁止」というのは、人間の思考を停止させるという意味でも危ない。「禁止」に対する反応は、それを受け入れるか受け入れないか、守るか守らないかの二者択一にしかならないからだ。「禁止だ」と言って、生徒が内容の如何を問わず、唯々諾々と従うようにしつけることは、民主主義国家の基本理念にも反し、主権者教育とも矛盾する一種の教育犯罪だとも思う。人間はできる限り「自由」でなければならない。「禁止」は基本的に権力の横暴である。
 さて、学校でそんなやり取りをしていたら、ふと頭に浮かんでギクリとしたことがある。それは、日頃から私が、「未成年の携帯電話の使用を禁止させろ」と言っていることである。これは、自転車のことと矛盾しないのか?
 冷静であろうと努めながら、、あれこれと考えを巡らせてみた。私が禁止すべきだと思っているのは、タバコ、麻薬、酒、ギャンブル(パチンコを含む)、携帯電話(年齢制限か免許制で許す)といったあたりである。
 それら禁止すべきものの共通点とは何だろうか?・・・と考えてみたら、答えは意外に簡単に出た。なるほど、それは人間を内側からダメにするものだ。どうもこれで規範化は可能なのではないか?人間を内側からダメにするものというのは、本人が感情的に強く求めるもので、自らの理性ではコントロールできない状態に陥らせていくものでもある。だから、「禁止」は本人のためにもなるし、社会の内部崩壊を食い止めることにもなる。
 私は、自分のすることを人からとやかく言われるのが大嫌いだ。世の中は最大限「自由」であって欲しい。そして社会を円満に成り立たせるために、各自が状況判断によって適宜自分の自由を制限して、他人の自由と折り合いを付けるべきだ。
 私がずいぶん大騒ぎをしたことで、幸いにして、一度出された「禁止」のお触れは撤回された。自転車に乗る諸君には、くれぐれも歩行者優先で、状況判断に基づく安全運転の励行を呼びかけなければ・・・。