家を建てる前に土台を確かめよ・・・砂川判決の問題



 新安全保障法案について書くのは、既に何度目かである。私ごときが書くことなど今更あろうはずもないのだが、やっぱり書いておこうという気になった。きっかけは、7月21日付け朝日新聞の社説である。それは、「砂川判決 司法自ら歴史の検証を」という見出しで、政府が新安全保障法案合憲の根拠としている砂川事件を取り上げている。ごく簡単に内容を紹介しておこう。

 「1957年に起こった砂川事件に関し、1959年に東京地裁は米軍駐留を憲法9条違反とする判決を出した。しかし、日本政府が跳躍上告(高裁をスキップ=平居注)した結果、最高裁はその判決を破棄して差し戻した。2008年以降にアメリカ政府の公電が公開されたことにより、判決に至る過程で、最高裁長官が駐日アメリカ大使と密談したり、その大使が日本の外相に圧力をかけたりした事実が明らかになってきた。砂川事件最高裁判決が、政府の集団的自衛権合憲論の根拠にさえなる今、裁判所が判決の過程に含まれる問題を検証することは大切だ。」

 砂川事件の判決の背後に、ここに書かれたような司法の独立と公正、更には国家主権さえないがしろにするような出来事があったということを、私は初めて知った。本当にびっくり仰天だし、人間というのは恐ろしいものだな、と思わされた。

 更に、私が気付かされたのは、政府が砂川事件判決を持ち出し、圧倒的多数の憲法学者や論客が、それを拡大解釈・恣意的理解だと非難するのを見聞きし、まったく政府はケシカランと怒りながら、実は砂川事件について、新聞でオマケのような位置付けの解説記事を読んだことがあるだけだ、という情けない自分の現実である。

 昨今、大学の文系学部が整理の対象にされそうだという話があって、賛否(目立つのは明らかに「否」の側)が論じられている。私は、文系の学問は非常に重要ではあるが、専門として大学で学ぶのは今よりもはるかに少数でいい、と思っている。しかし、文系的な知の重要性とは別に、学問の方法論をトレーニングすることは更に重要で、そのトレーニングをするには文・理という学問の内容を問う必要はないと思っている。ここで言う「学問の方法論」とは、既存の知識や考え方に対して、それは本当かと疑い、客観的根拠を以て真偽を問い直すという作業である。「みんなが言っているから」、「一般に〜と言われているから」ではなく、自らその正しさを問い直し、「真」と証明できた時のみそれを主張するという作業のトレーニングをすることは、劇場政治に巻き込まれず、風潮の中で真実を見失わないため、決定的に大切なことであろう。

 しかし、曲がりなりにも大学文系学部でそのようなトレーニングを受けてきたはずの私にして、いつの間にか分かってもいないことを分かったような気になり、思い込みの上に理屈を組み立てていい気になっているということを、往々にしてしてしまう。砂川事件についてもそうであった。

  とは言え、我が家の書架を探しても、砂川事件について詳しく書かれた本など見つけられなかったので、Wikipediaで引いてみる。確かに、「最高裁判決の背景」として、朝日の社説に書かれていたような話が、やや詳しく書かれている。典拠も明確なので信じてよいであろう。砂川事件判決は、戦後10年以上経ってなお、アメリカが日本の司法にまで介入し、しかも司法の側も自らの独立性を放棄するようなことを積極的に行ったことの上に成り立っている。しかも、内容としては、いわゆる統治行為論、すなわち「一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、(中略)終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」という司法権の放棄である。アメリカ軍を、あくまでも外国の軍隊であり、日本の憲法の範囲外として駐留を認めたことも、日米安保条約の存在を考えるとこじつけに近い。

 そして、今回の集団的安全保障合憲論の根拠だ。犯罪的なやり方で既成事実が作り出され、その上に建物が建てられていく。建物が建てられてしまうと、もはや土台の強度は検討されない。建物が建てられる時にこそ、土台の強度は確かめられるべきだ。単に、砂川判決が集団的安全保障を認めたかどうかではなく、判決内容自体と、そこに至る過程の正当性を改めて確認すべきではないか?これは無意味な蒸し返しではない。