最近、「反知性主義」という言葉を目にする機会が増えたような気がする。いつごろからだろう?おそらくは、昨年の秋、新安保法制についての議論が白熱し、ごり押しされ、可決されたあたりからではなかっただろうか?砂川事件判決を新安保法制の合憲根拠としたり、元最高裁長官までもが違憲だと言っているにもかかわらず、無視に近い扱いをしたり・・・といった中で、政権の反知性主義が問題になったと記憶する。
私は時々、生徒に短い日本語を書き写させる。夏休み直前にもやった。わずか100字あまりの日本語でも、誤字なく正確に筆写出来る生徒は決して多くない。生徒が持って来た紙を見て、誤字を見付けると、私は「字が間違ってるよ」と言って突き返す。生徒によっては、この時点で「どこが間違っているの?」と尋ね、私が「自分で捜しなさい」と言うと、怒り出す。私に無言で突き返されて書き直し、2回目持って来たときに同様だと、怒り出す生徒はもう少し増え、4回目くらいになると、半泣きになるか、腹を立てて悪態をつくか、あきらめる(=放棄する、書き直しの意欲を失う)、といったところである。
比較的最近、どこの新聞だったかどうしても探せない(思い出せない)のだが、反知性主義に関する記事を見付け、こんなことを思い出した。私としては、知性の本質を見せつけられるような気分になるのである。すなわち、自分が書いた字が間違っていれば、悪いのは自分であって、なんとか間違っている点を見つけ出して直し、正しい字の形を記憶しようとするのが当然である。文字は、過去数千年の人間が改良しながら作り出し、受け継ぎ、使ってきたものである。だから、文字を憶えるということは、知の蓄積に対して謙虚に頭を下げることでもある。逆に、文字を正しく憶えない、まして、自分が誤字を書いた時に、それを咎めれば、まるで自分に書けない文字を作り出した奴が悪いというような態度を取るというのは、傲慢不遜以外の何物でもない。ここを、平居の不親切に対するいらだちと誤解してはいけない。それは、表面的理解というものである。つまり、知性を形作る知識とか知恵とかいうものは人類の知の蓄積なのであり、それは自分勝手に改変してよいものではなく、敬意を持って謙虚に向き合い、教えを請うべきものである。それが分かっていないと、知性は受け継げず、知識を受け入れられない時に腹を立てるしかなくなってしまう。
そう考えると、砂川事件判決を牽強付会して自論の正当性の根拠にするとか、知を受け継いできた人間の意見を無視するとかいうことは、「主義」かどうかはともかくとして、確かに「反知性主義」の名に値することが分かる。そしてその根っこにあるのは、自分勝手であり傲慢さであることにも気付く。
私とて、反知性主義というものが、一方的に知の蓄積を否定するだけのものではなく、鼻持ちならないエリートや、口先だけ立派で、人々のために汗を流そうとしない「評論家」に対するヒューマニスティックな反発を意味する場合もあったことは、知っているつもりである。だからもちろん、知性を尊重するとしても、それを自己目的化させてはいけない。知性を社会変革のために用いていこうという姿勢がなければ、知性は反感を買うだけである。では、一体どうすればそのバランスはとれるのか?・・・なんだか連日同じようなことを書いて申し訳ないのだが、そこにも「哲学」は有効なのだな。「知性とは何か?」「知性は本来どのように用いられるべきなのか?」そして「自分は先人の知恵を受け継ぎ、世の中をよりよくするために上手く使っているのだろうか?」・・・。まったく、哲学のない時代は何もかも歪み、しかも歪んでいることに気が付けない。