I Tの本当の危険とは?

 かつて、宮水で「書道」(芸術科目)の授業を担当しているということを書いたことがある(→こちら)。実は今年、週に2時間だけだが、私は「社会と情報」(情報科目)の担当者でもある。これはびっくり。情報と言えばパソコンを使う授業で、パソコンと私は犬猿の仲、私がパソコンを使うと、なぜか普通では考えられないような不思議なトラブルが起きる、というのが前任校で有名だったほどだ。それが情報の授業を受け持つとは、なんとも不思議な縁である。
 もっとも、「社会と情報」の授業はTT(複数教員による担当)で、私はT2という助手だ。したがって、書道の時のような「免外申請」もなく、T1の先生の後を付いて、いわばどこかのおじさんによる補助、といった感じで授業に行っている。補助ならまだよいが、実際には、私が生徒と一緒に授業を受けているだけ、という感がなきにしもあらず。大嫌いなWordを、これを機会に少しは身に付けようっと。
 ところで、既に1ヶ月半ほど前の話になるが、授業を開始するに当たり、私も自己紹介というものをした。

「私は便利とか楽とかいうものを一切信じていません。携帯電話は持っていません。車は持っていますが、出来るだけ使わないようにしています。石巻から電車通勤です。・・・」

 いつもいつものことながら、携帯電話を持っていないと言った瞬間、生徒が顔を見合わせてざわつくのがなんとも快感なのだが、それはともかく、時間があるからもう少し話してくれとT1から言われたので、私は次のような話をした。

「T1先生から、この授業では、インターネットを使うことの危険性や情報管理についても力を入れて勉強します、という話がありました。それはとても大切なことです。しかし、インターネットやパソコンの危険性ということについて、私はもう少し違うことを考えています。それは単に個人情報を無制限に人目にさらしてしまうと、危険な目に遭うことにつながる、といったことではありません。
 皆さんが何かを知りたいと思った時、ネットで調べるという人は多いでしょう。ググる、というやつです。しかし、それによって、知識は画面で検索すれば簡単に手に入るものと思ってしまうと、人類がどれほど苦労をして知識を手に入れてきたかが分からなくなってしまいます。つまり、知識の本当の価値を見失ってしまうのです。これは、人間の過去の歴史そのものを軽く見てしまうということでもあります。
 知識を手に入れることは非常に難しいのです。そのことを見失えば人間は傲慢になります。傲慢になった人間は傲慢になったなりの判断をし、行動をします。それが世の中をおかしくしないわけがありません。私が考える、便利になった情報機器・システムの本当に危険な点とは、そうして人に誤解を与え、考えを根っこからだめにしてしまうということなのです。」

 何人かの生徒は、うなずきながら聞いていてくれたが、この話を高校1年生に理解しろというのは無理である。だが、反知性主義なるもの(→参考記事)が生まれてくる背景には、楽で便利な文明が、知性や文化の価値を見失わせるという問題があるのは確かだろう。楽で便利、すなわち欲望を満足させることこそが善、という思想(?)は危うい。教育はこういう点でこそ戦わなければならない。