今から30年あまり前、現在、東北大学図書館川内2号館が建っている場所が、まだグランドだった時代のこと、グランドに隣接する文学部は野球が盛んだった。中国学の3研究室(東洋史、中国哲学、中国文学)は特に盛んで、通常の研究室対抗野球大会では満足せず、印度学の研究室をも巻き込み、4研究室で夏休みに「アジア・リーグ」なる大会まで開いていたほどである(野球部の生徒に、昔、私は「アジア・リーガー」だったと言うと、目を丸くしたりする=笑)。
ある時、どうせ中国学の学生が野球をするのだから、全部中国語でやろう、と言いだした人がいた。ところが、現在でこそ国際大会にも出場してくる中国も、当時はほとんど誰も野球なんてしていなかった(と思う)。野球を意味する「棒球」という中国語こそ知っていたが、他の用語をどのように言うのか分からない。訳語があるかどうかすら分からない。ストライクは「好(ハオ=日本語に訳すと「よい」)」で、ボールは「不好(プーハオ)」でいいのではないか?と誰かが言い出した。すると、別の人が、だったらフェアも「好」で、ファウルも「不好」ではないか、と言いだした。するとまた誰かが、それならセーフも「好」で、アウトも「不好」だ、結局何でも「好」と「不好」で済んでしまい、全然面白くないぞ、という話になって、中国語野球は立ち消えになってしまった。
料理や食べ歩きの番組で、「おいしい」あるいは「おいしさ」というのを表現するのが難しい、という話をよく聞く。言葉ででも、表情や仕草ででも、だ。同じく、私もよく音楽を話題にするが、音楽を聴いて得た感動を言葉で表現するのは難しい。それらは「好」と「不好」という二者択一からどうやって脱却するかという闘いである。
高村光太郎が次のような言葉を残している(現仮名に直し、指示語の中身を補って引用)。
「(詩では、)実は言語の持つ意味が邪魔になって、内部に充ちてくる或る不可言の鬱積物の真の真なるところが本当は出しにくいのです。バッハのコンチェルトなどをきいてひどくその無意味性をうらやましく思うのです。」(「詩について語らず─編集子への手紙─」1950年。『高村光太郎全集』第8巻所収)
感情表現をする時に言葉を使うと、その意味によって抽象的な感情が具体化されてしまう、すると、表現したかった感情ではなくなってしまう、感情というような抽象的なものは、音楽のような抽象的なものによってしか表現され得ないのではないか、というようなことであろう。
こうなると、逆に、音楽を語るというのはどのようにして可能なのだろうか?いや、可能ではないのかも知れない。だが、たとえ不可能であっても、言葉によって何かしらの論評をし、音楽を客観化しなければ、聴衆も演奏家も作曲家も、音楽の質を高めていくことが出来ないのではないのか?
さて、私がこんなことを書いてきたのは(ここからが本題)、私自身がたびたび音楽に触れるからであるが、同時に、毎日新聞に時々(毎週土曜日?)載っている梅津時比古という人の音楽批評「新・コンサートを読む」を、評価しかねているからである。それは、音楽とは無関係なことがスペースの多くを占めることも多く、ただ、そうすることによって遠回しに音楽の性質を表現しようとしているのだ。ひどく独りよがりで自己陶酔的な駄文にも思えるし、抽象的な音楽を表現するためにはこうするしかないのだ、とも思える。
本当は、例としてその中の一つを全文引用できればいいのだけれど、著作権の都合上そうもいかない。
記事は6段組なのだが、写真が入ったりしているので、実質的には5段。字数でいうと1200〜1300字だ。例えば、一昨日は、ベアトリーチェ・ラナのリサイタル(ゴールドベルク変奏曲)を取り上げているのだが、主題であるラナについての記述は、最後の2段弱に過ぎない。その前は、コンサートの前に見に行った大垣美穂子展の印象が綴られ、更にその前には子供の頃にジュール・ヴェルヌを読んだ思い出だ。共通するのは、異次元に通じる、ということである。そして演奏会の印象は、「そのまま奏者がいつまでも弾き続けて鍵盤の前で狂っていてもおかしくない、とふと思う。その演奏は明らかに宇宙に通じており、しかしそこに痛みが差している」と結ばれる。宇宙に通じていることが「明らか」だという確信は何なのだろう?「痛みが差」す状態を読者はイメージできるだろうか?それは、ほかの人の演奏とどの程度違うのだろうか?
このような書き方は、ジャン=クロード・ペヌティエのリサイタルを取り上げた前回(4月15日)でも同様だ。梅津は陶芸家・吉村利美の個展について延々3段半も述べた上、最後の1段半でようやくペヌティエの演奏に触れる。吉村との共通点は、「時を止めている」という点にあるらしい。「消えゆくつかの間に、「秋の陽が透る」存在感。終演後、ペヌティエは「シューベルトのこの即興曲は、時を止めている」と語ってくれた。」
分かるようで分からない。まるでそれは音楽が抽象的であるのと同様、言葉もまた抽象を描いているようだ。まるで象徴詩のように。見方によれば、梅津の言葉は、言葉そのものが美しい。だが、それは何事かを説明したことになっているのだろうか?何事かを説明しない批評というのはあるのだろうか?音楽を言葉に置き換えることで、音楽の抽象性の見え方が変わり、演奏者や聴き手がその演奏を客観視することで、より豊かに味わうということは実現しているのだろうか?
私は梅津を批判しているわけではない。是非が判断できない、それを読んでいると、音楽批評のあり方がますます分からない、と言っているのだ。白か黒か、好か不好か、という単純なジャッジを乗り越えるために、高村光太郎が感じた言葉の罠を回避するために、音楽とは関係しないような何かを持ち出して、なんとなく感情の方向性を示していく。一つの試みとして評価すべきかとも思いつつ、どうも素直に読めない。思いめぐらす。