ロト=シエクルの「春の祭典」(1)

 昨年末、家族で四国へ行った、ということを書いた。その際、暇つぶし用に何の本を持って行こうかと考えた。私はスマホを持っていないにもかかわらず、旅行先で読書の時間を取るのは容易でない。何しろ、移動中は必ず地図を手にして景色を見ているわけだし、子供と同じ部屋で寝ると、子供が寝た後、煌々と電気をつけているのもはばかられるので、ついつい就寝時間が早くなる。もしかすると、読書に時間を費やせるのは仙台から東京往復の新幹線だけかな、などと思っていたら、案の定その通りであった。
 それは結果論。日頃、ドタバタ生活していると、何もせずにボーッとしている時間というのが、ほとんど罪悪と言っていいほどに無駄な時間に思われる。だから、暇があった時に読むべき本というのは必携で、しかも多めである必要がある。しかし、荷物を増やすのはまっぴらごめんだ。できるだけ軽量で、繰り返し読むに耐える本を探す、ということになる。
 今回、最終的に私が持って行くことにしたのは、ONTOMO MOOK『ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本』(音楽之友社、2017年)という雑誌の別冊といった感じの本である。読んで、あぁ面白かったなぁ、で終わってしまう大衆小説と違い、知識として記憶すべき要素がたくさん含まれているように思われたのだ。見たこともないような古い楽器の写真がたくさん載っていて、それも興味深い。同じ写真が何度か繰り返し出てくるのにはいささか興醒めだが、それでも、楽器の歴史をたどり、それが現代のどのような演奏にどのように反映されているのか、といった話について、簡便でありながらなかなかよくできた本だと思った。
 私のブログには、音楽に関する記事がたくさんあって、「音楽」というカテゴリーも設定してあるほどなのだが、かつて書いたこともあるとおり、自分は純粋に音楽を愛するのか、音楽史や解釈に知的興奮を感じるのか、というのは実に判然としない。更に言えば、音楽史が面白いというのは、歴史というのものの面白さの一部でしかないのかも知れない。ただ、音楽というのは抽象性が高いために、政治史や文学史とは違った独特の面白さがあるのだろう、とは思う。
 作曲家は新しい表現を常に求めている。そのために、新しい和声であったりオーケストレーションであったり、様式であったりを追求するわけだが、一方で楽器が変化すれば表現の幅は大きくなるので、楽器の変化を求めることも必然だ。楽器製作者たちは、作曲家のそのような求めに応え、絶えず楽器の改良に取り組んできた。改良の幅が大きければ、改良にとどまらず、新しい楽器の発明にもなる。
 私は今までも、そのような楽器の変化と音楽の変化ということについて、かなり意識的に知識を得ようと努めてきたつもりである。しかし、今回『オーケストラ読本』をパラパラ見ていていて、いまだに知らない楽器というのはたくさんあるものだな、とため息をついた。わずか300年かそこらの間に、いったいどれほどの数の楽器が発明されたのか、途方に暮れるほどである。正にそれは、人間という生き物の新しい表現への渇望のドラマである。
 歴史というのは、先日、沢木耕太郎について書いた時に触れたとおり、客観的なものではなく、今を生きる人間が主観的に作り出すものである。だが、歴史学というのは、最終的にそれが主観へとたどり着くにしても、客観的事実を明らかにしようとすることの上に成り立つ。音楽史も同様、そして今日問題にしたい音楽史とは、ベートーヴェンがいつ生まれていつ死んだか、というようなことではなく、その曲が作られ発表された時に、どのような形で演奏されていたか、ということである。楽器において、演奏方法・形態において、解釈において、ベートーヴェンの第9交響曲は、今と違うどのような形で初演されたのか、それこそが作曲者がイメージした音楽なのであり、そのオリジナルを復元することは、作曲者のメッセージをよりいっそう正確に私たちに伝えてくれるはずだ、と考える。
 私が西洋の古典音楽を聴くようになったのは、1970年代の末頃からであるが、それはちょうど、古楽器による演奏というものが、日本でもはっきりとした潮流として見えてきた時期であっただろう。現代楽器によるバッハ演奏の理想型を作り出したカール・リヒターが死んだのが、私が大学に入る直前の1981年2月だったことは、その時期に、現代楽器による演奏が当然のこととされていた時代が終わったことを象徴するかのようだ。
 世の中では、作曲当時の音を復元しようという試みがたくさん行われている。ところが、それは非常に難しい。時代による変化が激しすぎるからだ。忘れられてしまった奏法や解釈を明らかにするのも大変だが、楽器を探し出してきたり、復元したりという作業はそれにもまして大変だ。だから、バッハの時代(17~18世紀)なり、ベートーヴェンの時代(18~19世紀)なりの楽器を基本として、それで多少ずれた時代の音楽までカバーする、ということになってしまう。「古楽器」と「オリジナル楽器」と「ピリオド楽器」という言葉の意味が同じで、ピッチ(音高)はA(ラ音)=415Hzだ、などというのは、ひどく大雑把な発想である。本当に作曲家のイメージした音を復元しようと思えば、作曲家が生活していた場所の、作曲家が生きていた時代の楽器や奏法を、ピンポイントで考える必要がある。
 さて、今回『オーケストラ読本』を読んでいて、これは一度ぜひ聴いてみたいな、と思ったのは、フランソワ=クザヴィエ・ロトが指揮する「レ・シエクル」という変な名前のオーケストラの演奏だ。それは同時代の音を復元するということについての執念が、他のどの指揮者、どのオーケストラと比べても強い、いや、圧倒的に強いと感じられたからである。(続く)