傍目八目、または古典四重奏団と晩年の境地

 昨日、国連安全保障理事会では北朝鮮国連大使アメリカの国務長官が、直接罵り合いに近い対話をしたらしい。日本の外務大臣も、北朝鮮に対してかなりストレートに厳しい物言いをしたようだ。北朝鮮の反応は言わずもがな。
 学校において、私でも他の教員でも、生徒にガミガミと文句を言う一方で、自分自身が生徒と同じようなことをしているということがしばしばある。そのことに気付き、自責の念に駆られたり、赤面したり、片腹痛き思いにさいなまれる。傍目八目(おかめはちもく)というとおり、人間というのは、他人の行いについてはその問題がよく見えるが、自分自身については盲目であるという性質を確かに持っている。
 私の目から見ても、北朝鮮のミサイルや核爆弾の扱いはよろしくない。いくらアメリカでも、北朝鮮が何もしなければ、さほど怪しいことはしないだろう。北朝鮮の行動は正に「挑発」であり、それにアメリカが反応することで、無用な危険が作り出されていると思う。アメリカの反発はある意味で当然だ。
 だが、ではパレスチナは一体どうなのだ?と思う。アメリカがエルサレムを首都と認めることは、北朝鮮のミサイルと何が違うのだろうか?ユダヤ人の歓心を買うという目的のためだけに、中東のみならず、世界全体を危機に陥れるような、本当に「余計なこと」ではないのだろうか?それと北朝鮮の挑発行為がほとんど同じであることに、なぜアメリカは気付けないのだろうか?
 そんなことを考えながら、国連での罵り合いについての記事を読んでいたら、ますますストレスが溜まってきた。


 話はまったく変わる。
 今日の午後は、東北学院大学土樋キャンパスに音楽を聴きに行っていた。毎年恒例、「時代の音」というレクチャーコンサートシリーズの、今年第2回である。音楽よりも音楽史大好きな私にとっては、一流の演奏家が来て、ピリオド楽器(その曲が作られた時代に使われていたとおりの楽器)を使い、解説付きで聞かせてくれるこの企画は、本当にありがたいものだ。しかし、なかなか時間の都合の付かないことが多く、テーマを決めて毎年3回行われるシリーズのうち、2回行くことができたのは、おそらく昨年(トランペット)だけではないか?。その他は1回止まり。
 今年のテーマは「弦楽四重奏」。演奏は古典四重奏団(←固有名詞です。Quartetto Classico)。そして今日のテーマは「本当にすごいのは《第九》のあとだった」。取り上げたのは、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第8番「ラズモフスキー第2番」と同13番+「大フーガ」。作品番号でいうと、前者が59の2、後者が130と133。いわゆる第九が125だから、正に第九の前と後の作品を比較的に演奏した、ということである。ちなみに、作品59というのは交響曲でいうと第4番の1つ前で、作曲の時期はほぼ同じ(1806年?)。作品133はもともと130の最終楽章としてが書かれたものなので、どちらも第九の2年後(1825年)に作曲されている。初演の後で、友人たちの忠告により、ベートーヴェンは作品133を130から切り離して独立した曲とし、代わりに新しい楽章を作ってその後を埋めた。今日演奏されたのは、「大フーガ」を終楽章とするオリジナルの形である(ああ、ややこしい)。
 この「古典四重奏団」という変な名前の弦楽四重奏団を私は知らなかったのだが、会場でもらったプログラムを読み、レクチャーや演奏を聴いていて、とてつもなくすごい団体であることが分かった。レパートリーは約80曲あるが、その全てを暗譜で演奏するのだそうな。暗譜であるかどうかというのは、音楽の本質とは必ずしも関係ない。しかし、いくらプロでも、特に独奏曲ではなく、アンサンブルとなると、暗譜のためには相当なエネルギーが必要だろうから、暗譜は間違いなく彼らの意気込みを表す。実際、演奏に接すると、彼らが読譜にも譜めくりにも神経を使うことなく、どっぷりと音楽に没頭していることがよく分かる。それによって生まれる高揚感はすさまじい。聴衆にとっても、譜めくりのハラハラドキドキなしで音楽に集中できるからよい。ものすごく高密度でエネルギッシュな演奏だった。礼拝堂の長い残響と、規模(木の長椅子で500人くらい?)も、会場を濃密な音楽で満たすのに最適だった。静かに終わる曲でもなく、演奏者が拍手を制止するような仕草をしていたわけでもないのに、曲が終わった後、拍手が始まるまでに10秒ほどの静寂があった。私もそうだが、聴衆は放心していたのだと思う。
 意外にも、彼らはベートーヴェンの時代に使われていた楽器でなく、現代の楽器を使っていたが、この演奏を前にしてはどうでもいいことである。「時代の音」第3回(2月4日、ドビュッシーバルトーク)は行かないつもりだったが、無理してでも行きたくなってきた。
 さて、作品130・133を聴きながら、先日、小山実稚恵によるベートーヴェンの最後のピアノソナタの演奏を聴いた時(→その時の記事)と同じく、ベートーヴェン晩年の境地とは、なんと幽玄で奥深いものか、と打ちのめされる思いがした(→かつて作品131について書いた記事)。
 ところが、終演後、仙台駅まで歩いている時、私はその曲がベートーヴェン75歳の時の曲ではないという当然のことに思い至って愕然とした。ベートーヴェンは56歳までしか生きていないのである。え?!56歳といえば、来年には私もその年齢に達してしまうではないか。作品130を書いた時、彼は54歳であり、私は既にその年齢を通過している。とてもではないが、私はそんな境地に遠く及んでいない。
 思えば、モーツァルトは僅か35歳でこの世を去っているが、「レクイエム」にしても、クラリネット五重奏曲や最後の交響曲・ピアノ協奏曲にしても、間違いなく晩年様式と言うべき境地と完成とを示している。
 彼らは、歴史上何人かしか現れていないような特殊な人たちだから、私のような凡人と比較するのはそもそも間違い。だが、それにしても・・・。モーツァルトが20代後半で、ベートーヴェンが50歳で晩年様式に到達したとすると、寿命が何年であるかに関係なく、人間は最後の数年に晩年の境地に到達するということかも知れない。だとすれば、私が晩年の成熟を実現させられていないのは、まだまだ人生が続くからだ、ということになる。ほんとうかな?しかし、あと20年生きたとしても、とてもベートーヴェンの晩年の境地にまでは行き着かないような気がする。それはやはり、天才と凡人の違いということになるのだろうか?それらの作品を聴いて何も感じないという人もいるわけだから、そのすごさを感じるだけ救われていると諦めることにしようか・・・。