なるほど!バルトーク

 東北学院大学主催レクチャーコンサートシリーズ「時代の音」第2回、というものに行って、古典四重奏団という団体の演奏にすっかり感心して帰って来た、という話を12月に書いた(→こちら)。今年はそれでおしまい、と思っていたにも関わらず、その時の感銘があまりにも大きかったので、今日、第3回に行ってしまった。今日のテーマは「未来から来た響き」で、取り上げられたのはドビュッシーバルトークである。前回は、ベートーヴェンの曲を2曲だったので、最初にまとめてレクチャーがあって、その後演奏だったが、今日は違う二人の曲ということで、それぞれの曲の前に別々にレクチャーが設定されていた。
 とても面白かった。レクチャーの面白さは前回以上だ。ベートーヴェンは馴染みも知識もあるが、ドビュッシーバルトークとなると、それに比べれば知らないことが多いから、レクチャーがより新鮮に感じられたのかも知れない。
 ドビュッシーは、「牧神の午後への前奏曲」が音楽史上いかに画期的な和声で書かれているか、というのがポイント。単純なドレミを、古典派的な和声と、ドビュッシーの和声で弾き比べてみるだけでも、その革新性が鮮やかに伝わってくる。それは西洋における過去300年の音楽史をひっくり返すほどの大事件だったらしい。
 更に面白かったのは、ドビュッシーがそのような響きを生み出した時の、ドビュッシーと先生との会話が記録されている、という話(以下の表現は、まったくそのままではなく、こんな感じだったということ)。

(先生)「君はこの響きが美しいと思うのか?」
(ド)「はい。」
(先生)「本当にそう思うのか?」
(ド)「はい。」
(先生)「本当にこれが美しいのだな?」
(ド)「はい。」

 ドビュッシーの音楽が独特であり魅力的だというのは、今の私たちにとってはさほど不思議でも不自然でもない。しかし、当時、ドビュッシーの先生であったほどの人にも、美しいとはとても感じられない違和感の強い響きだったのだ。このような人間の先入観の問題は、後半のバルトークにも共通する。
 弦楽四重奏ストラヴィンスキー春の祭典」の一部や、12音技法で書かれたウェーベルンの「6つのバガテル」第1楽章を少し弾いて見せた後で、古典四重奏団の解説役・田崎瑞博氏は次のようにまとめた。

「人間は視覚よりも聴覚においてよりいっそう保守的なのです。一度馴染んだ響きからなかなか抜け出すことが出来ません。自然に聞こえる音楽というのは、何回も聞いて慣れているというだけなのです。」

 言うまでもなく、バルトークという作曲家は、友・コダーイとともに、ハンガリールーマニアの民謡採集を積極的に行い、その成果に基づいて曲を書いた。民謡の中には、人間が作ろうと意識して作ったのではない、自然な響きがたくさん含まれる。田崎氏はセルビアの民謡や相撲太鼓を録音で聴かせた上で、次のように言う(これもだいたいこのような内容、というだけで、表現を正確に再現できているわけではない)。

「3拍子、4拍子やドレミなどは人工物です。モーツァルトはそのような人工的な秩序で人工的な音楽を書きました。バルトークがやったことというのは、風の音や鳥の鳴き声などの自然の音、民謡に含まれる自然な音階やリズムを音楽に持ち込むことで、人工の秩序を崩していくことだったのです。人工物に慣れた耳には、それが違和感として感じられるだけなのです。」

 これは非常に説得力がある。なるほど、自分の中からロマン派以前の音楽的秩序を取り去らないと、バルトークは聴けないのだ。バルトークを聞くというのは、音についてどれだけ心を白紙に出来るかということが問われていることになるらしい。

「私たちはあちらこちらでバルトークを演奏する機会がありますが、一番歓迎してくれるのは子供たちです。」

 バルトークのような鼻歌に向かない曲を、子供たちが聴いて喜ぶというのは信じがたいが、子どもの方が後天的に習得する必要のある人工的な秩序から自由である度合いが高いとなれば、それはあながち変な話ではないのかも知れない。
 肝心の演奏は言うまでもないこと。この団体の演奏を聴くと、他の人たちによる弦楽四重奏なんて聴く気にならなくなるほどだ。我が家にはバルトーク弦楽四重奏曲の録音が一切ないこともあって、彼らが録音した全集を会場で買ってしまった。6曲=2枚のCDに、解説CDと、更にもう1枚、バルトークルーマニア民俗舞曲集+ドビュッシー亜麻色の髪の乙女」(田崎氏編曲の弦楽四重奏版)のCD(ケースが別で「非売品」と書いてあるので、会場だけでのサービスか?)が付いている、とてもお得なCDだ。しばらく、これらを聞きながら、人工の秩序から自分を解き放つ努力をしてみよう。