罪を問う・・・セクハラ糾弾の是非

 土曜日の夜は、仙台で昔の同僚たちと酒を飲んでいた。1次会も終わりに近づいた頃、最近、音楽界を震撼させた(?)セクハラ事件の話になった。セクハラが暴露されたのは指揮者ジェームズ・レヴァインと同シャルル・デュトワである。
 レヴァイン(74歳)はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の芸術監督。昨シーズン、一昨シーズン、METライブ・ビューイングという映画館用企画で彼の指揮する「マイスタージンガー」「タンホイザー」を見た(→前者の記事後者の記事)。その時に書いたとおり、重いパーキンソン病その他もろもろの病を患っていて、長く休職していた上、復帰後も自力での移動さえままならない。昨年12月の初め頃、彼のセクハラ行為が明るみに出た時、あれほど不自由な体で!?と驚いたが、セクハラに及んだのはなんと1960年代から80年代だという。50年も前の話だ。
 デュトワ(81歳)はNHK交響楽団の名誉音楽監督として有名だが、現在の実質的な地位はイギリスのロイヤル・フィルハーモニー芸術監督である。こちらは健康体のはずだが、それでも、12月下旬に公にされたセクハラ事件というのは、1985年から2010年にかけてのものである。
 呑み会の席で話が盛り上がったのは、みんなで憤ったということなのだが、この場合、憤りの対象はセクハラをしたレヴァインデュトワではなくて、何十年も前のことを問題にし、重い責めを負わせる誰かである。
 不祥事というのはいったい何年遡って問題にする必要があるのだろう?二人とも、その後の公演がすべてキャンセルになっているらしいが、どの程度の責めを負わせる必要があるのだろう?5年か、せいぜい10年で時効にすべきではないのか?等々・・・。
 誰でも何かしら悪いことはするのだ。過去にいかなるやましい行為もしていない、と言い切れる人は多くないのではないか?それは成長途上の必要な無駄なのである。悪いことをしつつも、人間関係が壊れるなり、自分自身で気付いて反省するなりして成長するものだ。
 約10年前、70歳前後までセクハラ行為に及んでいたデュトワは、その壮健に羨望さえ感じるといえば不謹慎。比較的最近の話だから、ある程度の非難は仕方がない。
 一方、レヴァインはそうではない。彼が仮に1990年以降セクハラ行為をしていないとすれば、健康上の問題かも知れないが、心改めてやめたということかも知れない。にもかかわらず、糾弾する価値とはどこにあるのだろう?してしまったことは仕方がなく、責めるとすれば、今後同様の事件を起こして不愉快を味わう人を無くすためであるべきで、その可能性が全くないと言ってよい病身のご老体を責めるのは、これはこれで立派ないじめだ。今後への可能性云々については、年齢上、デュトワも同じであろう。
 音楽のイメージを壊した、という批判はあり得る。それ故の公演中止もある程度は仕方がない。しかし、そのような陰を持っているからこそ、音楽がよく分かるというのもまた真だ。善くも悪くも「人間」を描くのが芸術であり、音楽だからである。
 世の中なのかマスコミなのかは判然としないが、政治家の極悪非道には至って鈍感なのに、普通の人の小悪については異常に潔癖で、激しく非難する傾向が強すぎると感じる。
 思えば、政治家の極悪非道については、主権者として自分にも責任の一端がある。アンポンタンでもそのことを薄々知っているから、あまり強くは非難できない。もちろん腹黒い政治家がいかにもいいことをしている、もしくは仕方なくしているという演出を巧みにするためだまされる、という問題もある。他人の個人事であれば、ストレス発散にもなるし、ヒロイックな正義感をも適度に満たしてくれる。正義の味方気取りで袋叩きは気分がよい。
 だが、「情けは人のためならず」だ。小悪に対する過剰な反応は、やがて回り回って自分の所へと返ってくる。人を責めたのと同様に、自分が責められる可能性は常にある。そのことに思いを致さなければ・・・。少なくとも、レヴァイン糾弾の大騒ぎは絶対にナシだな。