芸術家の役割・・・ラボは第10回!

 昨夜は記念すべき「ラボ」の第10回であった。カンケイマルラボというお店の展示スペースが使われていなかったこともあって、今回はいつもよりも広いスペースを使い、10人以上余計に予約を受け付けて大々的な開催となった。
 講師はラボ史上初の芸術家、写真家・志賀理江子さんである。愛知県出身で、ロンドン芸術大学を卒業し、2008年に、写真界の芥川賞と言われる「木村伊兵衛写真賞」を受賞した有名な写真家である。意外にも、石巻から車で40分くらいの所に住んでおられる。今回、私は初めてお会いしたのだが、その深刻で前衛的な作風からは想像も出来ない、明るくしなやかな感じの方である。
 別に第10回記念というわけでもないが、トークの時間も1時間半に拡大。志賀さんはものすごい勢いで話し続けた。決して退屈はしなかったのだけれど、話があまりにも多岐に渡り、アフォリズムめいた言葉がちりばめられていて、何が言いたいのかということは、決して分かりやすくなかった。もっとも、一言で要約出来ることが「分かる」だ、などと勝手なことを考えるから分かりにくいとも言える。聞いていた側は、言葉に込められた明瞭な意味に引きつけられたというのではなく、彼女の中から溢れてくる人間のあり方に対する問題意識の強さや、表現者としての悩みと情熱というものに圧倒されていたという感じがする。そのトークのあり方が、また写真と同様に彼女の「表現」なのだろう。
 奇しくも、1月末日に行われた宮城県の高校入試前期選抜で、「国語」の第2問は、写真家と言葉についての評論(飯沢耕太郎「写真とことば」)だった。「僕が重要で、面白い仕事をしていると考える写真家たちは、ほとんど例外なく優れた文章の書き手でもある。」「彼らが書いた文章を読むと、驚きとともにショックを受けることがよくある。僕などが苦労して「翻訳(平居注:=解説と考えるとよい)」してきた言葉が、軽々と、しかも的確に表現されていることが多々あるのだ。」
 私はこの文章を読みながら、「本当かなぁ?」と疑念を抱いていた。自分の作品を言葉によって的確に「翻訳」など出来るのであれば、何のために写真を撮る必要があるのか?写真家、いや、広く表現芸術家は、自分の専門とする表現において最も雄弁である、彼らが表現したいことは言葉という極めて理知的・思弁的な道具に馴染まない、言葉による表現に限界と違和感を感じるからこそ、音楽や絵画や写真や詩歌に可能性を求める、それが芸術家なのではないか?と。
 私が無理やり、本当に無理やり、彼女の言いたかったであろうことを抽出すると、以下のようになるであろうか?
「写真は時間軸が存在しないという意味で、現実とはまったく違う世界だ。私は写真を通して歌のようなものを探している。歌とは言葉よりも古く、振動を伴う、限りなく自然に近い人間の行為であり、身体的なものである。時間的な展開が速くなり、デジタルの世界で価値が目に見えない状態でやりとりされることも増えた中、確かなのは身体感覚だからだ。一方で、芸術家はクリエイティブであることを求められ、それはある種の幻を作る行為でもある。ただし、食べ物を作り消費するというささやかな生活の価値を認めていくことも大切であり、そうなると、本当にクリエイティブなことって何なんだろう?と悩むことになる。」
 私が思うに、今の世に生きる人々が目先の利益を追い求めることに汲々としているとおり、人は常に今この瞬間だけを生きている。「不易と流行」という言葉があるが、「流行」すなわち今に振り回される中で、「不易」という人間存在の普遍的な部分を見失っていく。それをつかみ、人々に提示し、目先の利益を超え、人類がより長く生きていけるようにしていくのが哲学者や芸術家の仕事=存在価値なのではないか?「芸術は長く人生は短い」という古代ギリシャの格言は、元々「技術の習得には時間がかかる」というひどく単純な意味の言葉なのであるが、歴史の中で、また違う意味を持たされるようになってきた。私なぞは、より一般的な形で、「理想は長く現実は短い」と言い換える(→この言葉について)。これは、そんな芸術の役割を示した言葉でもあるのだ。
 さて、一見順風満帆なラボも、始まってから2年近く、10回を経てくると、制度疲労というか、様々に考えなければならない問題が発生してくる。いつものとおり、昨夜、来場者には第11回の案内チラシを配ったのだが、それは「予告暫定版」と銘打って、「内容と日時は決定です!」「参加費:未定(従来から変更可能性あり)」といった言葉を補足的に盛り込んだものであった。さてさて、主催者3人の議論が今後どう展開して、ラボはどうなるのか?乞うご期待。