妖気に満ちた「サロメ」

 小学校1年生の我が息子が、先週末からインフルエンザにかかった。極めて重症。土曜日の夜に、珍しく自分から「病院に連れて行って欲しい」と言うので、我が家から車で2分くらいの所にある市の救急センターに連れて行ったところ、A型のインフルエンザと診断された。予防接種は受けさせてあるし、日曜日は一日中昏々と眠っていたので、すぐに治るだろう、と思っていたら、日曜日の夜に急激に悪化した。熱は9度5分になり、水を飲ませてもすぐに吐く。夕方には頭が痛いと言っていたのに、夜8時頃には、何も言わなくなった。呼びかけに対する反応もすこぶる鈍い。なに、寝かせておけばそのうち治るさ、すぐに医者だの病院だのと言うのは日本人の国民病、或いは、医者をもうけさせるために意図的に作られた慣習だ、などとブツブツ言っていた私も、なんだかこのまま脈が弱くなって、そのうち静かに心臓が止まるのではないか、という心細さを感じてきた。仕方がないので、8時半頃、また救急センター。2時間半かけて2本点滴を打ってもらった。
 月曜日の午前中は、看護休暇というものを初めて取り、卒業式の予行や同窓会入会式といった行事をさぼって家にいた。
 おかげで、と言うのも変なのだが、2月7日に録画したきり見ることが出来ずにいた、R・シュトラウスの楽劇「サロメ」を見ることが出来た。目の届きやすい居間に布団を敷いて息子を寝かせ、ヘッドフォンを付けて見るのである。
 今までも何度か話題にしたとおり、R・シュトラウスは結構好きな作曲家である。その着想のユニークさとオーケストレーションの巧みさ、音の響きの豊麗さは、なかなか右に出る者がいない。だが、その作品の中で、「サロメ」と「エレクトラ」は手強い。20世紀初頭に作られた、歌劇史における画期的作品という高い評価の確立している作品ではあるが、それ以前の、あるいはワーグナー以前の、レチタティーヴォとアリアが交互に組み合わされた歌劇の様式に慣れ親しみ、歌劇とはそのようなものだ、という感覚の染みついている私にとって、「サロメ」や「エレクトラ」は、旋律線の曖昧な、メリハリとけじめのない、ぬらりくらりとした作品に思われたのだ(こんな曲をよく憶えられるものだと、私は歌手に敬意を抱く)。CDでは何度か聞いたことがあったが、CDでは歌詞と音楽の対応が今一つはっきりしない。私の理解が及ばない原因の一つとしてそのこともあるのではないか、と思っていた私は、デュトワ指揮NHK交響楽団による演奏会形式(劇としての動きや舞台装置がない)「サロメ」の放送を楽しみにしていた。
 ところで、R・シュトラウスの歌劇に関する私の理解の多くは、岡田暁生『バラの騎士の夢〜R・シュトラウスとオペラの変容』(春秋社、1997年)に負っている。「サロメ」の歌劇史上の位置付けについても、解説は明快で、私としても納得できる内容のものだ。それによれば、「サロメ」の意義とは、文学作品をオペラ台本に移し替えることなく、そのまま歌詞にして音楽を付けた、という点にある。だからこそ、レチタティーヴォ+アリアという形を取れなかったわけだが、その様式を崩すことは、口で言うほど簡単なことではない。1曲のオペラの規模に収まる長さの文学作品が少ない上、音楽の側でも容量を増やす工夫をしなければならない。だが、そのような苦労がある一方で、それがうまくいきさえすれば、陳腐なオペラ台本とは比較にならないほど、文学作品自体の持つ力が機能し、音楽によって更に高められるという現象が起こる。
 ヘロデ王が娘サロメに踊りを熱望し、そのためには何でも希望のものを与えると誓う。希望のものが何かを明らかにしないまま踊ったサロメは、地下に幽閉されている予言者ヨカナーンの首を求める。ヘロデ王は抵抗し、説得を試みるがサロメは納得しない。やむを得ず、ヨカナーンの首を切って銀の盆にのせ、サロメに差し出すと、サロメはヨカナーンに接吻する。その異常さに恐怖を感じたヘロデ王は、娘・サロメを化け物だとして、殺すよう部下に命じるのであった。
 このような筋書きを持つオスカー・ワイルドの「サロメ」は、まったく異常な倒錯の世界である。多くの人が指摘するその点を、私も否定しない。上の筋書き以外の部分でも、ヘロディアスがもともとヘロデ王の兄弟の妻であったなど、道徳性においても著しい逸脱がある。だが、そのような善悪からは離れて、ドラマの中の一瞬一瞬に込められた感情と精神の緊張は、否応なく読者・視聴者を巻き込み、引きずり倒す。
 デュトワ指揮によるN響の演奏がいいか悪いかを意識する余裕すら、私は失っていたようだ。ぬらりくらりとした音楽の印象は変わらなかったが、耽美的な中にも不気味さをたたえるサロメの踊りと、その後のヨカナーンの首を巡る父娘のやりとりの場面は、内容もともかく、その緊張感の強さによって汗をかき、吐き気を催すほどであった。明るく、いつも通りのオーケストラが並んだステージであるにも関わらず、会場全体に妖気が漂っているような感じさえした。番組の冒頭で放映されたインタビューでは、いかにも真面目で善良なドイツ人の典型といった風貌を見せていたサロメ役バークミンも、演奏会形式とは言え、毒々しいルージュを塗って、妖婦へと変貌していた。それが、その場の雰囲気をより異様なものにしていた。息をするのも忘れて見入る、とはこのことだと、後から振り返って思った。音楽の力なのか、文学の力なのか、その相乗効果なのか・・・?
 バークミンはインタビューで、「サロメ」が訴えている内容として、「生首を欲しがるのは残酷だが、それは彼女の絶望だ」「願いがかなっても、必ずしも満足感は得られない。そのことを私は最も伝えたい」「残酷と言うより悲しい話。最後にむなしさが残る」「人は手に入らないと分かっている物を欲しがるもの。それと向き合うのがテーマだ」などと語っている。いちいち、なるほどなぁ、と思いながら聞いていたのではあるが、いざ全曲を聴いてみると、やはり倒錯だという以上の積極的な価値を、私は「サロメ」にどうしても見出すことが出来ない。R・シュトラウスがグロテスクなエンターテインメントとしてだけ「サロメ」を作曲したとは思えないが、その意図は見えないのである。
 というわけで、少々情けないような間抜けな話なのだが、意味だの価値だのといったことが分からなくても、わけも分からず心動かされるという現象は起こるのだ、というのが現時点での感慨である。
 だが待てよ、こうなると、そもそも「分かる」ということの意味を問い直した方がいいのではあるまいか。つまり、音楽はぬらりくらり、文学としての主題も不明、だけど絶対に心動かされたことが間違いないとすれば、それが「分かる」ということではないのか?それをいちいち言葉で明瞭に表現できなければ「分かった」ことにできないことこそが、むしろ知的倒錯ではないのか?そんな気持ちがふと兆してくる。