「処分という形でない処分」の方が怖い

 田原総一朗氏を始めとするジャーナリスト7人が、高市早苗総務相の電波停止発言(2月8日と9日、衆議院予算委員会において、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じる可能性について言及した事件。23日に、その判断をするのは法務大臣だとも明言している。)に抗議声明を出した。あまりにも当然のことだ。彼らがどれだけ賛同者集めに努力したかは知らないが、広く募ったとしたら、賛同しなかった報道関係者って、いったい何なの?という感じだ。
 以前、処分というのは、処分という形をとらない陰湿な処分があるという話を書いた(→こちら)。電波の停止というのは、「処分という形の処分」である。「処分という形の処分」をしようかというくらいだから、「処分という形ではない処分」は既に行われているかも知れない。実際、NHKの変質とか、今春、各報道番組で相次ぐ看板キャスターの更迭とか、背後に「処分という形ではない処分」の存在をにおわせる。いや、「処分という形ではない処分」が出るかも知れないという予想の下、内部で萎縮し、予防手段を執るという形で自己処分している例は相当数に上るのではないだろうか?
 抗議声明に言う「『外から』の放送への介入・干渉によってもたらされた『息苦しさ』ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度、萎縮が放送現場の『内部から』拡がることになっては、危機は一層深刻である」と言うのは一見正しい。だが、自主規制、忖度、萎縮が広がるには広がるだけの理由があって、一概に萎縮する側が悪いとばかりは言えない。「処分という形の処分」は戦うことが出来る。だが、「処分という形でない処分」は「処分という形の処分」よりもとらえどころがなく、際限が無い。だからこそ、不気味であり、恐ろしく、萎縮を引き起こすのである。
 大臣が、「処分という形の処分」を口にすることによって、それらの萎縮を生む効果は絶大だろうと思う。大臣、もしくは自民党としては、それで十分に目的達成。「処分という形の処分」という部分について、下々の者が抗議声明を出そうが、集会を開こうが、痛くもかゆくもない。
 自分たちの進む道に自信があるのなら、マスコミに圧力をかける必要なんて全然ない。マスコミへの圧力は、自分たちのしていることに対するやましさの表れ以外の何物でもない。マスコミが事実をねじ曲げて報道していないかどうかくらいはチェックしてもかまわないが、誰が見ても見解に違いが生じないほど明白な事実関係のチェックに限定されなければならない。
 もっとも、そんな批判的な目で報道を見ている人なんてほとんどいないし、そんなデリケートな報道を理解し、是非を判断できる知性なんて、いったい日本人の何%が持っているというのだろう?だから、与党は報道を意のままに操ろうとして恥じないのだろう。結局、選挙と同じで、問題になるのは国民の知的レベルであり、問題意識なのだ。