22日の読売新聞社説は、先日の参院選の政見放送を問題としている。見出しが「品位を欠く内容が目に余った」であることから分かるとおり、政見放送の内容があまりにもひどいから、与野党でそのあり方を見直すべきだ、というものである。読売新聞は、更に2日後、「品位なき政見放送」という15㎝×20㎝の記事を載せているから、この問題がよほど深刻なものであると認識しているのだろう。
テレビのニュースも、ネット記事も、新聞報道も、一般市民としては比較的丁寧にチェックしているつもりの私も、政見放送は見ていない。よって、読売の記事を信じるしかないのだが、それによれば、「悪ふざけのような政見が散見される。候補者が半裸になって動き回る、卑猥な言葉を連呼するといった具合」であって、「非常識な内容は目に余る」のだそうだ。公式の政見放送ではないが、動画投稿サイトで芸能人の秘密を暴露して注目を集め、比例で当選した東谷義和(ガーシー)氏が、詐欺容疑で逮捕される可能性があるとして当面帰国するつもりがないことをも問題視している。
これらを読む限り、確かに「ひでぇなぁ」とは思う。だが、私はさほど問題だと思っていない。なぜなら、問題なのは品位のない政見放送ではなく、そのようなことをする候補者を当選させる有権者の品位だからである。政見放送の内容がひどければ、そのような候補者に投票しなければいいだけの話だ。
政見放送の内容を規制すれば、候補者の品位がむしろ見えにくくなる。公職選挙法が「(放送局は政見を)そのまま放送しなければならない」と定めているのは、決して理由のないことではない。立候補者の本来の姿を規制によって隠してしまう方が、健全なる民主主義にとってはよほどマイナスであろう。
ただ、ガーシー氏でもそうだが、有権者はそのような問題のある候補者に投票する。候補者の方でも、手段を選ばず、品位があろうがなかろうが、有権者の印象に残っていた方が票になると思うから、そのようなパフォーマンスをするのである。当選者は有権者の質を反映する。有権者が賢くならない限りは、政見放送に規制をかけても無駄である。
24日の記事では、識者の意見として、駒澤大学の川上和久氏の「社会通念上目に余る政見放送を野放しにしていると、政治不信につながりかねない」という言葉を載せる。立候補者は「政治家」ではなく、「ただの人」なので、その人が非常識な政見放送をしたとしても、政治不信になどなるわけがない。現役の議員さんたちの言動こそが政治不信を生む。だが、それとて有権者の選択の結果である。彼らが何を語って、あるいはどのような振る舞いをして選挙に勝ったのか?マスコミはそんなことを調べ、報道して、常に有権者の判断を問い、有権者が賢くなれるように立ち回って欲しい。