介護職の薄給酷使について

 半月ほど前の話になるが、神奈川県川崎市の老人介護施設介護福祉士をしていた某人物が、3人の老人を施設のベランダから突き落として死亡させたという容疑で逮捕された。実際に人殺しをしたとしたら、それはもちろんケシカランことこの上ないのであるが、一方で、同情とも言うべき、なんとも非難しきれないものを感じる。
 有名な話、介護施設職員の待遇は悪いらしい。平均月収は20万円あまりで、全産業の平均と比べて10万円ほど低い。人の体を持ち上げるなどの作業が多いため、腰痛を患う人も多く、10年ほどで転職する人が絶えない。現場では人手の確保に汲々としているらしい。高校で就職係をしてる私も、介護職で内定がもらえなかったという話を聞いたことがない。
 ことはお金や体の問題だけではないだろうと思う。何よりも精神的ストレスの大きさは、他人事ながら、想像しては胸が苦しくなってくるほどだ。
 私の父は、約7年間の寝たきり生活の末に死んだ。最後の2年くらいは、介護施設に入っていた。70キロ近い体重で、ほとんど体の動かない人間を自宅で介護などしきれるものではない。施設に入る頃には、頭の状態もすっかりおかしくなっていて、正常な意思疎通が出来なくなっていた。
 施設の方には大変よくしていただき、いまだに感謝の念を持って思い出すのであるが、それにしても、父を見舞いに行くたびに、そこで働く施設の方々を見ながら、この方々は、何を喜びとして仕事をしているのだろうかと、いつも思った。
 言うことを聞かない、わけの分からないことをする、というだけなら、残念ながら高校でも日常茶飯事である。だが、少なくとも、高校生は自分で食べられるし、用も足せる。そして何よりも、いくらメチャクチャな高校生だとしても、この子にもやがて分かる日が来る、出来るようになるに違いない、案外こんなやつが大物になるかも知れないなど、将来へ向けての期待を持つことができる。一方、介護施設の老人は、今後衰え、ますます手間がかかるようになっていくばかり、いくら親身に世話をしても、分かっているかどうかも分からない。それでいて文句だけは言う。疲れている時など、本当に腹が立つだろうと思う。だから殺していいとはまさか思わないが、そうしたくなる気持ちは十分に理解できるのである。
 中学校の頃だったか、物の値段というのは需給関係で決まる、という超単純素朴経済論を勉強した。父が施設に入る時でもそうだったが、世の中のあらゆる介護施設は、数百人待ちという状況がある。つまり、「需」は非常に大きいのに、「給」はまったく追いついていない。なのに、「給」の側が薄給酷使だというのは変な話だ。
 もちろん、それは介護施設社会保障の一環であり、公的な財源が絡んでいるからだ。介護職員の給料が安いのは、需給関係の枠外で給与が決まるからである。聞くところによれば、介護職員の給与を全産業平均まで引き上げようと思うと、年間で約1兆5千万円の公的資金が余計に必要になるらしい。被災地における防潮堤建設や地盤のかさ上げには、増税してでも借金してでも無限とも思えるお金を費やすが、介護施設には「ないものは出せません」とバンザイをした格好だ。
 体の動かなくなった家族は、家族が面倒見るのが当たり前だ、介護施設に頼ろうとするのが間違っている、と考えるのがもっとも理に適っているような気がする。だが、果たしてそうだろうか?そのことを考えるためには、介護を必要とする人が、なぜこんなに増えたのか、ということを考える必要がある。
 それは医療技術のゆがんだ進歩だ。あえて「ゆがんだ」と書いたのは、その進歩が極めて対症療法的だからである。つまり、がんになればがんだけを治す。全身の老化を止めるわけではない。問題になるのは、特に脳だ。肉体の病気を治す技術が飛躍的に進歩する一方で、脳の劣化にはブレーキを掛けられない。当然のこと、生きてはいるが、精神状態がおかしい老人がたくさん生まれることになる。
 とは言え、そのような医学の性質は仕方がない。それを止めろと言うこともできない。「これ以上治療すると、病気は治るでしょうが、認知症になるリスクが高くなりますよ」と言って、治療の継続について選択を迫るのは酷だろう。「病気が治る」と「認知症になる」の確率が、それぞれ正確に分かるならまだしも、どちらも「〜だろう」「〜かも知れません」という状態で、最悪の事態を前提とした決断は出来ない。
 生み出した技術は使わずにはいられない、というのは人間の業のようなものだが、それが「生存」という本能に関わることだとすれば、なおのこと制御は難しい。一部の人にとってではなく、全ての人にとって同様であるはずだ。それを人間全体の問題としてとらえて社会保障に位置付けよう、という理屈は決して間違いではない。
 だとすれば、介護施設職員の待遇も社会全体で責任を持たねばなるまい。たいていの人間は、お金のためだけに仕事をすることはできない。だから、たとえ入所している老人が感謝の意思表示を出来ないとしても、預けている家族の人たちが、施設の人たちに感謝と敬意とを持ち、それを伝えていくことが、まずは非常に大切だ。同時に、介護職員の給料を、少なくとも全産業平均まで引き上げることは当然である。だが、そこからは、給料を更に上げるよりは、勤務時間を減らすことの方が、ストレスを軽減し、人手を確保し、業界への定着を促すためには有効な策であろう。そのためには人手を増やす必要があり、そのためのお金を出し惜しまないことが必要だ。介護職員の給料よりも、防潮堤や高速道路。それは、あまりにも惨めな「日本」である。