ゲルギエフの「悲愴」



 昨日は、イズミティ21で行われたミュンヘン・フィルの演奏会に行ってきた。指揮は、かのワレリー・ゲルギエフ、ピアノ独奏辻井伸行という豪華顔ぶれであった。出演者も豪華だが値段も一流というチケット(B席で仙台フィル定期S席の3倍)を、東京まで行くと思えば仕方がないと、半年以上前の4月25日、発売の瞬間に手に入れていた。驚いたことに、昨日の演奏会の広告が新聞に出たのは、売り出し直前の1回だけ。2ヶ月くらい前になったら「好評発売中!」とかいって、繰り返し広告が出るだろうと思っていたら、遂にその後見なかった。仙台フィルの演奏会等でチラシが配られるということもなかった。1ヶ月半ほど前だったか、主催者のホームページを見てみたら、「SOLD OUT」と書いてあった。これはすごいことだな、と思った。ミュンヘン・フィル、ゲルギエフ辻井伸行、曲目、どれを目当てにチケットを買うのか知らないが、平均で2万円を超えるチケットが1500枚近く、ほとんど宣伝もせずに完売するというのは、それが仙台であることも含めて考えると本当に驚く。

 さて、曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」とチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」であった。

 辻井伸行は人気絶頂にある盲目のピアニストで、私はテレビでその特集番組などを見たことはあった。いいか悪いかは判断が付かなかったが、興味はあった。しかし、少なくとも昨日の演奏に関して言えば、残念ながら感心しなかった。熟していない、と思った。第2楽章のオーケストラこそはなはだ美しかったものの、全体としてちぐはぐ、ぎくしゃくとして、スッキリしない演奏だった。単にピアニストが未熟なのかも知れないが、もしかすると、目の見えない人と協奏曲を演奏するというのは、指揮者・オーケストラにとってもなかなか大変な作業なのかも知れない。辻井を協奏曲の独奏者に招くというのは、ミュンヘン・フィルの場合に限らず、興行的な理由からだけなのではないか?とさえ思ってしまった。アンコールは2曲、ベートーヴェンの「悲愴」の第2楽章と、ショパンの練習曲作品10の第11番。辻井の現状からすると、多少粗雑でも、それが激しさの魅力にもなり得るショパンの練習曲が最も似合いだったが、それでも、「並」である。今後、優れたピアニストになっていくかどうかなんて、もちろん私には分からない。

 私がゲルギエフをいつ知ったかは記憶が定かでない。彼がサンクト・ペテルブルクのマリンスキー劇場の音楽監督になり、それが大抜擢で話題になって知ったのではなかったかと思う。ずいぶん人気のある指揮者らしく、最近までCDは廉価版が出ていなかったような気がする。そのため、我が家には1枚もない。昨年のNHK音楽祭の時に、初めてその指揮ぶりを映像で見た(R・シュトラウスの「サロメ」=演奏会形式)。写真で目にする、ギラギラしたいわゆる「濃い」顔は、確かにその通りだったが、ほとんど楽譜に目を落としたまま、小さく小刻みな動作で棒を振る姿は、巨匠にもカリスマにも見えなかった。彼が音楽を作り出しているという感じは微塵もなく、音楽に付いて行くのが精一杯という感じに見えた。どうしてこんな人が、世界の名だたる劇場やオーケストラの音楽監督になれるのだろうか?と不思議だった。

 ところが、今日の「悲愴」は圧巻だった。指揮ぶりも、「サロメ」の時とはまったく違っていた。楽譜も置いていないし、動作も大きい(息の音は大きすぎる=笑)。冒頭、非常に遅いテンポでコントラバスファゴットが序奏を奏で始めた時は、かつての音楽監督チェリビダッケブルックナーのような音楽が始まるのかと思ったが、その後はむしろハイテンポで、第4楽章なんか、正に激情の音楽。度肝を抜かれるような激しい「悲愴」だった。しかし、音楽についてはかなり保守的な感性を持っていると思われる私にとっても、それが突飛な音楽作りには聞こえないし、空回りしている感じでもなく、「へえっ?!悲愴ってこんな曲だったっけ??」と驚きながら、新鮮な感動をもって聴いていた。「あの顔」どおりの濃厚で激しい「悲愴」だった。ミュンヘン・フィルは35年ぶりくらいで聴いたが、弦も管も特別に上手いという感じはしないのだから、私がこの「悲愴」に圧倒されたのは、純粋にその音楽作りによってであり、それは間違いなく指揮者の実力だろう

 アンコールはナシ。これも賢明。「悲愴」の後に似合う曲なんてない。う〜ん、まいった。