新聞作りは奇跡だ・・・河北新報社見学会



 第3期考査が木曜日から始まり、来週火曜日まで続く。考査中は3時間くらいしか授業(試験)がないのだけれど、採点や平常点の集計など、やることはたくさんある。それでも、日常に比べると少し時間を取りやすいので、休めば自分の首を絞めることになるとは知りつつ、1日だけは休みを取ろうと思っていた。昨日は、朝から、久しぶりで大学図書館に本を見に行き、午後からは宮城県NIE推進委員会高校部会研修会というものがあって、仙台の河北新報社に行っていた。午後は休みではなく、公務扱いなのであるが、私が企画して招集をかけた行事で、ストレスが発生する可能性はゼロとなれば、気分は休みである。

 最初に、河北新報社の教育プロジェクト事務局長Iさんに、小一時間の講話「新聞とネットと高校生」をしていただき、その後、河北新報社の中を案内してもらって、新聞制作の現場をつぶさに見せていただく、というものである。

 いまだに、私には、新聞を毎日発行できる、しかも、配送に掛かる時間を考慮しながら、次々と新しい版を組んでいくというのが信じ難いのである。先日行われたプレミア12の韓国戦なんて、どう考えても勝ちが見えていたにもかかわらず、9回に則本が打ち込まれて逆転負け、しかも試合開始時刻が遅かったので、いよいよ逆転された時には夜の10時に近かった。それに対応できるというのは驚異である。

 新聞作りの主戦場である報道部や整理部は、大きな雑然としたフロアである。取材に出ていたり、食事に行っていたりという事情もあるらしく、さほど多くの人が働いているという感じもしない。1秒を争う作業の連続かと思っていたが、雰囲気はけっこうのんびりしていて、「早く、早く!!急げ、急げ!!」という感じの場所でもない。聞けば、そのような状態になるのは、締め切り間際に大事件の一報が入った時や、選挙の時くらいだそうである。国政選挙の時などは、フロア全体が本当に殺気立っているらしい。

 見ていると、コンピューター抜きにして、新聞制作なんてあり得ないと思う。だが、私が子どもの頃には、そんな物はなかったのだ。それもまた信じ難い。一方、コンピューター様々の現代の新聞作りだが、整理部という紙面の割り付けなどをやっている部署では、職員の机上に割り付け用紙が広げてあった。パソコンの画面で何でも処理できるわけではなく、紙にレイアウトを書き込みながらイメージをしていくことは、いまだにどうしても必要な作業なのだ、という。

 今回、講話をしていただいた部屋は、いつもNIEの会議で使っているホールだったが、そのすぐ隣が、かつて印刷機が置いてあった工場の跡だというのは知らなかった。データの電送が出来るようになった現在、印刷所は仙台市郊外に移っているので、かつて巨大な輪転機が設置されていた場所は倉庫になっている。そこで聞いた過去の印刷方法の話は、これまた驚きに満ちていた。

 昔、鉛の活字を使っていた時代、もともとは職人が一つ一つ活字を探して版を組んでいたが、その後、その作業は自動化された。どちらの時代も、版を組んだ後、活字を元の場所に戻すのが非常に大変なので、一度組んだ活字はすべて溶かして鋳なおしたそうだ。しかも、私は活字を組んだ版で印刷するのかと思っていたが、新聞印刷は短時間で大量に印刷することが求められるため、輪転機でなければならず、組んだ活字をそのまま輪転機にセットして高速回転させると、活字が飛び散ってしまうため、組んだ版に厚紙を強く押し付けて文字の跡を付け、その厚紙を半筒型にして鉛を流し、輪転機用の鉛の版というものを作ったという。「見ますか?」といって、Iさんは、どこからか鉛の版を台車に乗せて持って来てくれた。新聞2面分で重さ15キロほどの、反筒型のものである。写真部分もちゃんとある。凹凸の高さの差はとても小さく、これで本当に鮮明な印刷ができたの?という代物である。凸部にインクを上手く載せるのも、それはそれでなかなか高度な技術だな、と思ったが、既に機械がない中で、それがどのように行われていたのかを聞くことはできなかった。

 根掘り葉掘り質問しながら、2時間近くもかけていろいろ見せていただいて、私としては本当に楽しかった。新聞作りに携わるというのは、やり甲斐もあり、変化もあって楽しいだろうなぁ、と思うが、一方で、新聞社で働く人というのは、家族と生活時間帯も合わず、本当に大変だろうなぁ、とも思った。

 ここまで見せていただくと、次は、現代の最新式の巨大輪転機が回る郊外の工場も見てみたくなる、というものだが、実は、来週の土曜日に夕刊印刷の現場を見せていただけることになっている。そわそわ。