一票の格差について



 昨日、最高裁で、昨年12月に行われた衆議院議員選挙における「一票の格差」について判決が出た。例によって「違憲状態」である。国民(有権者)一人ひとりの価値は平等であるべきなので、何人あたり1人の議員を出せるかというのは、公平でなければならない。格差が2倍未満の時は、人間の価値を比べる時に、1.2人分とか1.5人分と言っても、人を分割するわけにはいかないのだから、仕方ないとあきらめが付く。一方、格差が2倍を超えると、2人分というのはないだろ、だったら、こちらの選挙区の定数を倍にしろよ、と言わなければならない。ところが、国会議員が1人増えると、相当な費用がかかるので、安易に定数を増やすわけにはいかない。地域にはある種の文化的なまとまりというものがあるし、円滑に選挙を行うためには、地方自治体の選挙管理委員会が動きやすくする必要もある。だから、選挙区の有権者数をそろえるために、機械的に線を引いてしまうわけにも行かない。現職の議員には地盤というものもあって、それを動かすわけにもいかないので、選挙区の変更は、一部の議員にとって死活問題である。それは基本的に「エゴ」なのだが、そうは言い切れない場合もある。

 さて、「平等」ということを考えた場合、一票の格差を是正することは当然に必要である。しかし・・・どうも私にはそう簡単に言い切ることが出来ない。

 私が住む石巻市は、宮城5区という選挙区である。実は、昨年の衆議院議員選挙小選挙区において、全国で有権者数の最も少ない、つまりは1票の価値の最も大きな選挙区であった。有権者数の最も多かった東京1区と比べると2.129倍、つまり、国政に対して私は、千代田区や新宿区の人たちの2倍以上の影響力を持っていることになる。だが、宮城県から衆議院に入れるのは6人、東京都からは25人である。

 現在、国が検討している是正措置に従えば、宮城県は選挙区が一つ減って5となり、東京都は3つ増えて28となる。私の印象として、東京というのはただでさえも影響力が大きいのに、ますます大きくなるのか?という感じである。減らされそうなのは、宮城の他、青森、岩手、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄で、増えそうなのは東京(3議席)の他、神奈川(2議席)、埼玉、千葉、静岡、愛知に各1議席である。

 国会議員というのは、各地方で選ばれるとは言え、その地域の代表すなわち地域エゴの擁護者としてではなく、全国民の代表者として活動することが求められている。しかし、現実には出身選挙区に有利に振る舞いがちである(少なくとも不利には振る舞えない)ことは、誰しもの認めることであろう。次の選挙を意識すれば、そうならざるを得ない。

 だとすれば、都市部への人口集中、首都圏への一極集中が進んでいる今日、「一票の格差」をなくそうとすれば、過疎化のひどい地域にはますます光が当たりにくくなり、中央と地方の格差が大きくなってしまう可能性が高い。果たして、それがいいことだろうか?

 もう一つは、投票率に関する問題である。昨年の衆議院議員選挙の投票率は、全国平均で52.66%であったが、「一票の格差」問題で、不利な扱いを受けている代表格、すなわち上で議席が増えるとした都県と、有利な扱いを受けている代表格、すなわち議席が減りそうな県を比べてみると、投票率で差は認められない。せめて、東京その他の不利な扱いを受けている県の人たちが、政治に対して積極的な姿勢を持っている証拠として、特に高い投票率でも示しているなら、こんなに多くの票が動いていながら、なぜ宮城5区と同じ1人の代表しか国会に送れないのだ!と主張することにも意味があるが、そうでなければ、「一票の格差」を問題にしているのは、ごく一部の奇特な人たちだ、ということになってしまう。投票に行かずに、一部の人たちによる訴訟を見ながら、私たちは平等な扱いを受けていない、などとグチをこぼすことがあれば、これはこれで立派な「お任せ民主主義」ではなかろうか?

 加えて、中選挙区にするか小選挙区にするかといった問題なら、国政を左右すると思うが、選挙の当選者が、絶対数ではなく「比」で決まる以上、小選挙区の枠内で、どんなに有権者の数が変化しても、当選者の政党別勢力分布はほとんど変わらないだろう、という白けた気持ちもある。さらに、有権者数が20万だろうが、50万だろうが、そのうちの1票の価値なんて、ほとんど意識することさえ難しいほどに小さい。宝くじで、1等が50本だろうが、200本だろうが、まず間違いなく当たらない、というのと同じ感覚だ。もちろん、最後には1票で決まることだってあり得るし、その1票が集まらなければ数万という票にだってならないのは分かっている。だけど・・・である。

 というわけで、私には「一票の格差」問題は、非常に観念的、教条主義的な問題、悪く言えば机上の空論のように思える。タテマエ論と言ってもよい。それどころか、それを是正することは、地方と中央の格差を大きくし、ますます地方に日の当たらない政治が行われる原因を作ることにすらなりかねないわけだから、果たして、理屈が正しいからと言って何が何でも是正すべきことなのかどうか?そんな気持ちで、新聞記事を眺めていた。